元帥就任と勢力争いとは? わかりやすく解説

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元帥就任と勢力争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 14:29 UTC 版)

アルテュール3世 (ブルターニュ公)」の記事における「元帥就任と勢力争い」の解説

ヘンリー5世死後、幼いヘンリー6世即位しヘンリー5世の弟であるベッドフォード公ジョングロスター公ハンフリー後見人となった1423年ベッドフォード公はイングランド・ブルゴーニュ・ブルターニュ間の関係強化図りリッシュモンマルグリット結婚させ、自身マルグリットの妹アンヌ結婚している。リッシュモンに取っても結婚メリットがあり、密かにブルゴーニュ・ブルターニュ間でブルゴーニュフランス和解目指すことを約束させ、善良公からトネール伯領など領地与えられた。 ところが1424年ベッドフォード公些細なことからリッシュモン侮辱したために、彼はイングランド陣営去り2度と戻らなかった。ヘンリー5世の死の時点リッシュモンヘンリー5世の間の宣誓無効になったかどうかは意見分かれるところであるが、ヘンリー5世死に臨んで、あるいはベッドフォード公独断宣誓から解放した証拠はない。ただし、この事件ただでさえ長い間虜囚の目にあっていたリッシュモン決定的にイングランド的な立場追いやった。以後、彼は反英親仏立場貫きその影響受けてジャン5世親仏的中立またはフランスとの同盟立場立ったリッシュモン虜囚時代後期限定的な自由を得ている状態で、密かにサヴォイア公国およびブルターニュ公国フランス王家及びブルゴーニュ公国との大同盟の策謀加わっており、2人の兄の死により王太子となりフランス王となっていたシャルル7世の妃マリーの母であるヨランド・ダラゴン信任得ていた。ヨランドシャルル7世働きかけ空位となっていた元帥の位に推したリッシュモンは兄のアドバイス支持受けてヨランド交渉フランス休戦協定結んだ善良公の支持をも取り付けた上で1425年3月7日元帥位を受けたフランス元帥機能上は王国第2の位であり、戦時には一時的に国王権限上回る軍事的な指揮権持ち全軍先鋒司令官となる一方で国王入城の際には抜刀して先導する栄誉ある役職であったリッシュモン王国資金ブルトン人4,000人の部隊編成する権利与えられた。この部隊最後まで彼の軍の中核となり、忠誠誓い続けた。そしてこれが後の国王常備軍発展するための中核となった。 しかし、リッシュモン元帥に就きながら、その直言と頑固と思われるような信念固さからシャルル7世には疎まれており、取り巻きからは私腹を肥やす上で重大な障害と見なされたシャルル7世厭戦癖と取り巻き公私混同により、リッシュモン実質的な宰相として王国軍運用維持していたが、周囲妨害もあり、1426年にサン・ジャム・ド・ブーヴロンを包囲した宮廷から援助差し止められた上、イングランド軍に包囲網破られ2度目にして生涯最後の戦闘での敗北喫している。リッシュモン君側の奸取り除くべくピエール・ド・ジアックを排斥、翌1427年2月にジアックを即決裁判処刑すると、彼に成り代わったカミュ・ド・ボーリユも処刑しその際ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユ手を組んだシャルル7世相次ぐ寵臣処刑対しリッシュモン不信感隠せなかった。 リッシュモンはボーリユの後任筆頭侍従ラ・トレモイユ推薦したが、彼は政争においてリッシュモンの上行っており、リッシュモン実質的な権限停止させられてしまった。ラ・トレモイユリッシュモン利用してジアックら政敵葬ると、使い終えた道具である彼も処分することに成功したのであるリッシュモン包囲されモンタルジ救援ラ・イルデュノワジャン・ド・デュノワ率いて9月成功させたものの、それが一段落する追放されパルトネー隠居して支配固めたシャルル7世重用をよいことに、ラ・トレモイユ国王軍資金横領して私腹を肥やした上、着服した軍資金私兵雇い最大政敵であるリッシュモン追い払うことまでしており、両軍の兵は1428年にたびたび衝突している。 同年秋からオルレアン包囲戦が始まると、リッシュモンシャルル7世とその取り巻き以外からは声望高くオルレアン救援要請各方面から出されたが、シャルル7世からの命令近づくことができなかった。しかし、1429年ジャンヌ・ダルクシャルル7世オルレアン救援認められ出陣すると、戦況一変した同年6月にはリッシュモンの姉マリー息子アランソン公ジャン2世はじめとする軍勢が、ジャンヌ率いられロワール川掃討戦役を開始したため、リッシュモンの軍は合同姿勢見せたシャルル7世ラ・トレモイユジャンヌアランソン公リッシュモンの軍を追い払うように命令するが、ラ・イルなどの将軍リッシュモンとの合同イングランド軍との決戦には必要と支持したジャンヌリッシュモン指揮受け入れ6月18日パテーの戦いイングランド軍に大勝利収めたラ・イル奇襲成功し百年戦争大規模野戦フランス軍勝利する嚆矢となった。このパテーの戦いが、ジャンヌリッシュモン最初で最後共闘となったジャンヌリッシュモン陣営留めるべく努力続けたが、シャルル7世ラ・トレモイユだけでなく、アランソン公ラ・トレモイユ遠縁であるジル・ド・レデュノワ伯などとは折り合い悪かった信念曲げぬ頑固さ対立生んだのみならず名声一頭地抜いているために嫉視されたのも原因であろう。既に家柄実力で、内外からフランス第一人者として認められていたといってよい。 宮廷から返事が無いことに失望したリッシュモンジャンヌらと別れパルトネー戻り7月ランスでのシャルル7世戴冠式にも参加できず、他方面でイングランド軍の実質的な総帥ベッドフォード公対決していた。ヨランドリッシュモン復権狙っていたが、シャルル7世ラ・トレモイユ反発にあって実現しないどころかブルターニュイングランド方に追いやりかねないような行動に出たベッドフォード公リッシュモンジャン5世イングランド側へ寝返るべく工作出たが、リッシュモンは反イングランド立場変えず実現しなかった。 1430年ジャンヌブルゴーニュ軍に捕らえられイングランド引き渡された。ラ・イルジル・ド・レなどのジャンヌ崇拝者独自に救援試みるが、シャルル7世ラ・トレモイユジャンヌ見殺しにした。翌1431年ジャンヌ処刑されるが、ジャンヌ登場によりフランス国民意識誕生していたために、シャルル7世とその取り巻きに対して反発強まり再度リッシュモン復権動き現れた。1432年周囲説得リッシュモンラ・トレモイユ和睦した一時的であり、翌1433年リッシュモンヨランドラ・トレモイユ捕らえて幽閉し国王侍従にはヨランド息子王妃の弟であるメーヌ伯シャルルが穴を埋めた。この政変によりラ・トレモイユ失脚リッシュモンは再び王国総司令官地位名実共に返り咲いた

※この「元帥就任と勢力争い」の解説は、「アルテュール3世 (ブルターニュ公)」の解説の一部です。
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