元帥就任と勢力争い
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「アルテュール3世 (ブルターニュ公)」の記事における「元帥就任と勢力争い」の解説
ヘンリー5世の死後、幼いヘンリー6世が即位し、ヘンリー5世の弟であるベッドフォード公ジョンとグロスター公ハンフリーが後見人となった。1423年にベッドフォード公はイングランド・ブルゴーニュ・ブルターニュ間の関係強化を図り、リッシュモンとマルグリットを結婚させ、自身もマルグリットの妹アンヌと結婚している。リッシュモンに取っても結婚はメリットがあり、密かにブルゴーニュ・ブルターニュ間でブルゴーニュとフランスの和解を目指すことを約束させ、善良公からトネール伯領など領地を与えられた。 ところが1424年、ベッドフォード公が些細なことからリッシュモンを侮辱したために、彼はイングランド陣営を去り、2度と戻らなかった。ヘンリー5世の死の時点でリッシュモンとヘンリー5世の間の宣誓が無効になったかどうかは意見が分かれるところであるが、ヘンリー5世が死に臨んで、あるいはベッドフォード公が独断で宣誓から解放した証拠はない。ただし、この事件はただでさえ長い間虜囚の目にあっていたリッシュモンを決定的に反イングランド的な立場に追いやった。以後、彼は反英親仏の立場を貫き、その影響を受けてジャン5世も親仏的中立またはフランスとの同盟の立場に立った。 リッシュモンは虜囚時代後期の限定的な自由を得ている状態で、密かにサヴォイア公国およびブルターニュ公国とフランス王家及びブルゴーニュ公国との大同盟の策謀に加わっており、2人の兄の死により王太子となりフランス王となっていたシャルル7世の妃マリーの母であるヨランド・ダラゴンの信任を得ていた。ヨランドはシャルル7世に働きかけ、空位となっていた元帥の位に推した。リッシュモンは兄のアドバイスと支持を受けて、ヨランドの交渉でフランスと休戦協定を結んだ善良公の支持をも取り付けた上で1425年3月7日に元帥位を受けた。 フランス元帥は機能上は王国第2の位であり、戦時には一時的に国王の権限を上回る軍事的な指揮権を持ち、全軍の先鋒の司令官となる一方で、国王の入城の際には抜刀して先導する栄誉ある役職であった。リッシュモンは王国の資金でブルトン人4,000人の部隊を編成する権利が与えられた。この部隊は最後まで彼の軍の中核となり、忠誠を誓い続けた。そしてこれが後の国王常備軍へ発展するための中核となった。 しかし、リッシュモンは元帥位に就きながら、その直言と頑固と思われるような信念の固さからシャルル7世には疎まれており、取り巻きからは私腹を肥やす上で重大な障害と見なされた。シャルル7世の厭戦癖と取り巻きの公私混同により、リッシュモンは実質的な宰相として王国軍を運用維持していたが、周囲の妨害もあり、1426年にサン・ジャム・ド・ブーヴロンを包囲したが宮廷から援助を差し止められた上、イングランド軍に包囲網を破られ2度目にして生涯最後の戦闘での敗北も喫している。リッシュモンは君側の奸を取り除くべくピエール・ド・ジアックを排斥、翌1427年2月にジアックを即決裁判で処刑すると、彼に成り代わったカミュ・ド・ボーリユも処刑し、その際にジョルジュ・ド・ラ・トレモイユと手を組んだ。シャルル7世は相次ぐ寵臣の処刑に対し、リッシュモンに不信感を隠せなかった。 リッシュモンはボーリユの後任の筆頭侍従にラ・トレモイユを推薦したが、彼は政争においてリッシュモンの上を行っており、リッシュモンは実質的な権限を停止させられてしまった。ラ・トレモイユはリッシュモンを利用してジアックら政敵を葬ると、使い終えた道具である彼も処分することに成功したのである。リッシュモンは包囲されたモンタルジの救援をラ・イルとデュノワ伯ジャン・ド・デュノワを率いて9月に成功させたものの、それが一段落すると追放され、パルトネーへ隠居して支配を固めた。シャルル7世の重用をよいことに、ラ・トレモイユは国王の軍資金を横領して私腹を肥やした上、着服した軍資金で私兵を雇い、最大の政敵であるリッシュモンを追い払うことまでしており、両軍の兵は1428年にたびたび衝突している。 同年秋からオルレアン包囲戦が始まると、リッシュモンはシャルル7世とその取り巻き以外からは声望は高く、オルレアン救援の要請が各方面から出されたが、シャルル7世からの命令で近づくことができなかった。しかし、1429年にジャンヌ・ダルクがシャルル7世にオルレアン救援を認められて出陣すると、戦況が一変した。同年6月にはリッシュモンの姉マリーの息子でアランソン公ジャン2世をはじめとする軍勢が、ジャンヌに率いられてロワール川の掃討戦役を開始したため、リッシュモンの軍は合同の姿勢を見せた。シャルル7世とラ・トレモイユはジャンヌとアランソン公にリッシュモンの軍を追い払うように命令するが、ラ・イルなどの将軍はリッシュモンとの合同がイングランド軍との決戦には必要と支持した。ジャンヌはリッシュモンの指揮を受け入れ、6月18日のパテーの戦いでイングランド軍に大勝利を収めた。ラ・イルの奇襲が成功し、百年戦争の大規模野戦でフランス軍が勝利する嚆矢となった。このパテーの戦いが、ジャンヌとリッシュモンの最初で最後の共闘となった。 ジャンヌはリッシュモンを陣営に留めるべく努力を続けたが、シャルル7世やラ・トレモイユだけでなく、アランソン公やラ・トレモイユの遠縁であるジル・ド・レ、デュノワ伯などとは折り合いが悪かった。信念を曲げぬ頑固さが対立を生んだのみならず、名声が一頭地を抜いているために嫉視されたのも原因であろう。既に家柄と実力で、内外からフランスの第一人者として認められていたといってよい。 宮廷から返事が無いことに失望したリッシュモンはジャンヌらと別れパルトネーへ戻り、7月のランスでのシャルル7世の戴冠式にも参加できず、他方面でイングランド軍の実質的な総帥ベッドフォード公と対決していた。ヨランドはリッシュモンの復権を狙っていたが、シャルル7世とラ・トレモイユの反発にあって実現しないどころか、ブルターニュをイングランド方に追いやりかねないような行動に出た。ベッドフォード公はリッシュモンとジャン5世にイングランド側へ寝返るべく工作に出たが、リッシュモンは反イングランド的立場を変えず実現しなかった。 1430年にジャンヌがブルゴーニュ軍に捕らえられ、イングランドに引き渡された。ラ・イルやジル・ド・レなどのジャンヌ崇拝者は独自に救援を試みるが、シャルル7世とラ・トレモイユはジャンヌを見殺しにした。翌1431年にジャンヌは処刑されるが、ジャンヌの登場によりフランスに国民意識が誕生していたために、シャルル7世とその取り巻きに対して反発が強まり、再度のリッシュモン復権の動きが現れた。1432年に周囲の説得でリッシュモンとラ・トレモイユが和睦したが一時的であり、翌1433年、リッシュモンとヨランドはラ・トレモイユを捕らえて幽閉し、国王の侍従にはヨランドの息子で王妃の弟であるメーヌ伯シャルルが穴を埋めた。この政変によりラ・トレモイユは失脚、リッシュモンは再び王国の総司令官の地位に名実共に返り咲いた。
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