ゴート族への方針
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 02:55 UTC 版)
「テオドシウス1世」の記事における「ゴート族への方針」の解説
東方はテオドシウス1世の統治下、比較的安定していた。しかしハドリアノポリスの戦いの後、バルカン地域に定住したゴート族とその他の北方蛮族の対策に終始忙殺されていた。ハドリアノポリスの戦いとその後のゴート族の侵入の影響は甚大で、当時テオドシウス1世と共同皇帝であったグラティアヌスが自身の属州であったイリリアの統治を放棄し、ガリアのトリアーに退いてしまうほどであった。ハドリアノポリスの戦いの後のローマ軍の最大の弱点は、主に、蛮族と戦うための傭兵として蛮族を雇っていたことであった。テオドシウス1世は東方全土に布告を出して退役兵などを強制召集し、事態を打開しようとした。さらにドナウ南岸に暮らす人々を徴兵してゴート族掃討にあて、目覚しい戦果を挙げた。 だが、379年にサーサーン朝のシャープール2世が死去すると、その後継者争いの影響で帝国東方に不穏な雲が立ち込めた。そのため、これ以上のゴート族との戦闘は不可能と考えたテオドシウス1世は、ゴート族にトラキア北部への移住を同年に認めた。ただし、それまでの移住と異なり、ゴート族は同盟者 (ラテン語: fodus) として移住したため、帝国への納税義務はなかった。 これにより、ドナウ川河畔は一時的に安定したが、帝国の蛮族化が急速に進んだ。また、一時は成功したかのように思われた蛮族移住政策も、テオドシウス1世の死後、395年に西ゴート族の族長アラリック1世の反乱によって破綻した。
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