二つの革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 23:59 UTC 版)
オスマン帝国とロシア帝国における第一次世界大戦は、それぞれの終焉をもって終わった。両国家はともに世俗化され、国家の統制下で一定の庇護を受けていた正教会は、大きな変化に直面させられた。 トルコ共和国は、コンスタンティノープル総主教座の存続を許したが、総主教はトルコ国籍に限ると規定した。教会領として保障されていた多くの土地は没収された。またこの当時、コンスタンティノープル教会の信徒は、ほとんどがオスマン帝国領内カッパドキアなどの、キリスト教信徒が多数派を占める地方に住み、ギリシャ語を話していたが、トルコとギリシャの間で住民交換が行われ、コンスタンティノープル教会管轄下の信徒は激減した。さらに、ギリシャ領ながらコンスタンティノープル総主教の管轄下にあったアトス山修道院では、トルコとの住民交換により移住したギリシャ人を住まわせる土地を確保するため、ギリシャ政府が、アトス山の領地を大幅に没収した。このためアトス山は大きく運営に支障をきたすことになった。 より大きな打撃となったのは、ロシア革命によるソビエト連邦政府の成立であった。聖務会院が廃止され、総主教制が復活したが、教会の自律は依然危機にあった。多くの主要な教会や修道院が閉鎖され、国家に財産を没収され、博物館などに転用された。また聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、処刑された。当初ボリシェヴィキ政権に激しく反発していたモスクワ総主教ティーホンは、その後の苛烈な教会弾圧を前にしてスターリン政権を認める姿勢に転じ、一定の協力を行った。それでも教会に対する弾圧は続き、1931年にはスターリンの命令で救世主ハリストス大聖堂が爆破されるに至った。第二次世界大戦中、祖国防衛に貢献したとの理由で教会は合法化されたが、教会の活動は著しく制限されており、信徒は社会生活のうえで不利に立たされた。 また特に革命の初期、政府の迫害を恐れ、多数の亡命者が出た。ヨーロッパや北アメリカに亡命した信徒や聖職者は、すでに移民していたロシア移民が立てた在外ロシア正教会に拠り、信仰を守った。それによりパリやニューヨークでロシア正教会の神学校が立ち、20世紀における正教のみならずキリスト教神学研究のひとつの中心となった。
※この「二つの革命」の解説は、「正教会の歴史」の解説の一部です。
「二つの革命」を含む「正教会の歴史」の記事については、「正教会の歴史」の概要を参照ください。
- 二つの革命のページへのリンク