基調となる歴史認識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 08:31 UTC 版)
「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」の記事における「基調となる歴史認識」の解説
本書の扱っている時期は1848年の二月革命から1851年12月2日のクーデターまでを内容としているが、これは1850年3月までの時期を扱った『フランスにおける階級闘争』(英語版)も同時期を扱っており、共に1848年革命とその帰結に関するマルクスの歴史観を読み取ることができる。この両著は、階級闘争史観を下敷きに革命後の政治過程に評論を加えるという基本性格を共有しているため内容上の差異はない。ただし、『階級闘争』では先に待ち受けているであろう展望を見据えた見解が提示されている。これに対して『ブリュメール18日』の場合はルイ・ナポレオンのクーデターという革命の結末部分を目撃して執筆されているという意味で「歴史の皮肉性」を強調したものとなった。 本書は非常に有名な言葉に始まる。 「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的な事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度目は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として、と。ダントンの代わりにコシディエール、ロベスピエールの代わりにルイ・ブラン、1793~1795年のモンターニュ派の代わりに1848~1851年のモンターニュ派、小男の伍長と彼の元帥の円卓の騎士団の代わりに、借金を抱えた中尉を手当たり次第かき集めて引き連れたロンドンの警官!天才のブリュメール18日の代わりに白痴のブリュメール18日!そしてブリュメール18日の第二版が出版された状況も、これと同じ戯画である。一度目はフランスが破産の瀬戸際にあったが、今度はボナパルト自身が債務者留置所に入る瀬戸際だった。……。人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分が選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする。すべての死せる世代の伝統が悪夢のように生きているものの思考にのしかかっている。そして、生きている者たちは、自分自身と事態を根本的に変革し、いままでになかったものを創造する仕事を携わっているように見えるちょうどそのときでさえ、まさにそのような革命的危機の時期に、不安そうに過去の亡霊を呼び出して自分のたちの役に立てようとし、その名前、鬨の声、衣装を借用して、これらの由緒ある衣装に身を包み、借り物の言葉で、新しい世界史の場面を演じようとしているのである。」 とりわけ、冒頭部分が注目に値する。 「偉大な悲劇」が、1799年11月9日(共和暦8年霧月18日)、ナポレオン・ボナパルトがフランス革命をクーデターで流産させたことを意味しており、「みじめな笑劇」が、その甥のルイ・ボナパルトが、第二共和制の下で民主的に大統領に選出されながら、同じく1851年12月2日にクーデターで共和制を流産させ、大統領権限を大幅に強化した新憲法を制定して独裁体制を樹立し、翌年には国民投票を経て皇帝に即位し第二帝政を樹立して、ナポレオン3世と自らを称したことを意味している。この二つの事件は相互に直接的には関係ないが、マルクスの目から見れば、クーデタで共和政を崩壊させた点では伯父と甥とは歴史的に同じ役割を果たしたことになるから、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」という表現には「大きな皮肉」が込められていることになる。 冒頭に続く部分からは「歴史は繰り返す」という点を元に、過去の歴史的状況を対比させることにはルイ・ナポレオンのクーデターを「戯画」として読者に印象付けようとするマルクスの意図が込められている。マルクスは、二つの革命に登場した共和派と反動勢力の相克はフランス革命をなぞったものと理解し、革命の歴史的成果を矮小化させたと批判した。 さらに、諸勢力を率いる指導者たちを歴史という舞台で過去の台本を演じるコミカルなキャラクターとして描写しようとした。マルクスは革命の矮小化と同時にナポレオンに対しても矮小化が生じたことを感じ取り、「彼ら(フランス国民)は昔のナポレオンのマンガ版を手に入れただけでなく、19世紀半ばにはそう見えるに違いないのだが、昔のナポレオン自身をマンガにしてしまった」と語った。こうした歴史の結果に第一帝政を模倣し平凡化した第二帝政が始動したと描写している。 マルクスは第2版へのマルクスの序文の中でこの著作の特徴を、クーデターを青天の霹靂というべき不意打ちだったと語ったヴィクトル・ユゴーの『小ナポレオン』と二月革命から生じた歴史的な不可避の帰結であったと指摘するプルードンの『クーデタ』とを比較して、「私が証明しているのは逆であって、フランスにおける階級闘争というものが事態や情況を作り出して、そのおかげで、平凡で馬鹿げた一人物が主役を演じることができるようになったということなのだ。」と述べている。マルクスは、1851年12月2日のクーデターがナポレオン・ボナパルトのクーデタの時とは異なり、ルイ・ボナパルトの能力や実力によって可能になったのではなく、フランスにおける階級闘争の激化が左右両翼の諸党派を共倒れさせ、結果的にルイ・ナポレオンの台頭とその後のクーデターを可能にしたという点を示そうとした。 また、上記マルクスの叙述の後半部分からは、歴史における社会的条件づけの優位性を示唆している。革命の歴史の記憶が強く作用してクーデターを可能にさせたのだと考え、ナポレオンのクーデターをフランスの革命史の伝統が創り出した事件であると見ていることが読み取れる。クーデターは個人的な自由意志による行動としてではなく、階級闘争の激化、革命の前途への漠然とした不安感が人々を捕え、かつて存在した第一帝政への軌跡についての追憶から自由の放棄と独裁への転落という道を歩ませたのだと指摘している。
※この「基調となる歴史認識」の解説は、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」の解説の一部です。
「基調となる歴史認識」を含む「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」の記事については、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」の概要を参照ください。
- 基調となる歴史認識のページへのリンク