基衡自身の国府への影響力(藤原頼長に対する勝利)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:44 UTC 版)
「藤原基衡」の記事における「基衡自身の国府への影響力(藤原頼長に対する勝利)」の解説
基衡はこれに懲り、翌康治2年(1143年)に師綱の後任の陸奥守として下向した院近臣・藤原基成と結び、その娘を嫡子・秀衡に嫁がせた。基成と結ぶことで基衡は国府にも影響を及ぼし、院へもつながりを持った。 また、左大臣・藤原頼長が摂関家荘園12荘のうち、自分が相続した出羽遊佐荘、屋代荘、大曾根荘、陸奥本吉荘、高鞍荘の年貢増額を要求してきた。この年貢増微問題は5年以上揉める事になるが、基衡はこれと粘り強く交渉し、仁平3年(1153年)に要求量を大幅に下回る年貢増徴で妥結させ、頼長を悔しがらせている。これにより、奥羽にあった摂関家荘園は奥州藤原氏が荘官として管理していたことがわかる。
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