二つの高麗共産党
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1918年6月、李東輝・朴鎮淳(朝鮮語版)らがハバロフスクで韓人社会党(朝鮮語版)を結成。1920年のコミンテルン第2回大会には韓人社会党から出席した朴鎮淳が民族・植民地問題委員会の討論に加わり、執行委員にも選ばれている。李東輝が大韓民国臨時政府(1919年結成)に参加したことから韓人社会党は拠点を上海に移し、1921年に「高麗共産党」を称した。彼らのグループは「上海派(朝鮮語版)」と呼ばれる。 これと前後してにボリシェビキ党員の金哲勲・呉夏黙らがイルクーツクでロシア共産党韓族部を結成。1921年に同じく「高麗共産党」を称した。彼らのグループは「イルクーツク派(朝鮮語版)」と呼ばれ、上海にも支部を置いた。イルクーツク派には金在鳳(朝鮮語版)・朴憲永らが属した。 「上海派」は民族解放を優先課題とし、「イルクーツク派」は社会主義革命を優先課題とした。両派は激しく対立し、1921年にはスヴォボードヌイで朝鮮人民族主義団体の軍事組織やソ連の労農赤軍を巻き込んでの衝突に発展した(自由市惨変)。 1922年1月から2月にかけてモスクワで開かれた極東諸民族大会(極東勤労者大会)には、朝鮮人代表団が参加し、同大会参加者148人のうちの約3分の1(54人)を占めた。呂運亨・金奎植など民族主義陣営の人士も参加したが、社会主義系の各派からも李東輝・朴鎮淳・朴憲永・金丹冶などが参加した。このとき朝鮮から参加した少壮のメンバーが、のちの朝鮮共産党結成の中心メンバーとなる。 1922年12月、コミンテルンはコリア・ビューロー(朝鮮語版)(「高麗局」とも訳される。のちにオルグ・ビューロー)を設置し、上海・イルクーツク両派の対立解消に乗り出すとともに、朝鮮内に支部(共産党)を創立するための工作を行った。しかし両派の抗争に加え、朝鮮内の社会主義者が外部からの介入に反発したことから、コミンテルン主導の党創設は失敗している。
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