二つの貝塚碑とは? わかりやすく解説

二つの貝塚碑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 17:20 UTC 版)

大森貝塚」の記事における「二つの貝塚碑」の解説

現在、大森貝塚に関する石碑は、品川区側の遺跡一帯整備され大森貝塚遺跡庭園品川区大井六丁目21)内と、大田区側の大森駅近くNTTデータ大森山王ビル横の小道線路側に入り進んだ場所(大田区山王一丁目3)の2ヵ所にある。前者横書きで右から「大森貝塚」、後者縦書きで「大森貝墟」と書かれており、貝塚碑は1929年昭和4年11月に、貝墟碑は1930年昭和5年)に相次いで建てられた。貝塚碑は、上部縄文後期深鉢あしらい、碑額には「 The Site of the Omori Mounds discovered by Professor Edward S.Morse 」(エドワード・S・モース教授によって発見され大森貝塚跡)とあり、貝墟碑は、高さ2メートル超える板碑で、碑面には「我国最初発見 大森貝墟 理学博士佐々木忠次郎書」とあり、また「明治十年モース先生発見係り門下生生理学博士佐々木忠次郎松浦佐用彦両氏と共に発掘研究せし顕著な遺跡昭和五年四月建立」とある。 モース論文発掘場所の詳細を書かなかったこと、貝塚発見報告文書所在地大森村記述されたことから、当初発掘地点について長い間品川区説と大田区説の2つ存在した。しかし、その後1984年昭和59年)までの複数調査により、東京府大井村鹿島谷(現在の品川区大井6丁目)の土地所有者調査補償金50円支払った文書発見されたこと、貝塚周辺再発掘貝層確認され一方、貝墟碑周辺では見つからなかったことから、現在ではモース調査したのは品川区であったことがわかっている。なお、両者は約300メートルの距離である。 「東京大学法理文学部第六年報によれば発掘地は「荏原郡大井町」(のちの品川区大井六丁目)である。

※この「二つの貝塚碑」の解説は、「大森貝塚」の解説の一部です。
「二つの貝塚碑」を含む「大森貝塚」の記事については、「大森貝塚」の概要を参照ください。

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