二つの突出部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 14:26 UTC 版)
主墳の頂上には木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられ、また、斜面にも2列に地表の露出分だけでも高さ・幅とも1メートルあまりで20個ほどの列石がめぐらされ、北東側の突出部は団地造営工事のため破壊されている。今ではその名残を一部にとどめているに過ぎないが、前方部状の突出で、およそ十数メートルほど伸びている。その上面は幅約3、4メートルで、わずかに前面に向かって下降気味であるが、平坦に近い。突出部の前面はかなり急な傾斜で2~3メートルほど下がり、東西に走る小道に達しており、小道をわたると突出部の続きと思われる高まりがつづく。盛り土しているのが分かる。また円礫が二重三重に置かれている。円丘につけられた遺構であることが分かる。南西側の突出部は約20数メートルにわたって細長い幅数メートル高さ2メートルほどの尾根状のものが伸びている。先端部の両側が丸く整形されていてその先端には大きな列石が貼られている。西部分には現在、給水塔が建っていて、今は見ることができない。 香川県高松市の猫塚古墳や奈良県天理市の櫛山古墳などと同じ双方中円墳であるが、先行的な形態をしている。2世紀末に起こった倭国大乱が終わった後、瀬戸内海沿岸地方では、古墳造営の新しい兆しが見え、この地域で墳丘の造営の動きが見られるようになった。このような大きな墳丘墓が、古墳時代より先に築造されていたのは、この地に葬送儀礼に特殊器台・特殊壺を用いる大きな政治勢力があったことを窺わせる。その勢力の代表的な首長の墓であると推測されている。後の古墳時代中期には造山(350メートル)、作山古墳(270メートル)の大前方後円墳が造られる。
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