サルマティズム
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サルマティズムまたはサルマタイ主義(ポーランド語: Sarmatyzm / ウクライナ語: Сарматизм / リトアニア語: Sarmatisms / 英語: Sarmatism)は、16世紀から19世紀にかけて、ポーランド・リトアニア共和国の貴族階級およびウクライナ・コサック[1]の生活様式や思想などにおいて支配的だった文化現象。いわゆる共和国の「黄金の自由」時代と共に興隆した。
- ^ [1]、[2]
- ^ Tadeusz Sulimirski, The Sarmatians (New York: Praeger Publishers 1970) at 167
- ^ P. M. Barford, The Early Slavs (Ithaca: Cornell University 2001) at 28.
- ^ a b Dan D.Y. Shapira. (2009) "Turkism", Polish Sarmatism and Jewish Szlachta Some reflections on a cultural context of the Polish-Lithuanian Karaites Karadeniz Arastirmalari pp. 29–43
- ^ Andrzej Wasko, Sarmatism or the Enlightenment: <space>The Dilemma of Polish Culture, Sarmatian Review XVII.2, online
サルマティズム
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「ポーランド・リトアニア共和国」の記事における「サルマティズム」の解説
シュラフタの間で普及していたイデオロギーは、「サルマティズム」と呼ばれた。貴族階級が自らを東欧から中央アジアにかけて活動し多文化主義の社会(チェルニャコフ文化)を構成していた古代スラブの地に定住した遊牧民「サルマタイ人」の出自との確信から、東方地域に影響された特異な文化を形成した。サルマタイはトルコが起源ともされている。この信条体系はシュラフタ文化の重要な部分を占め、彼らの生活領域の全面に浸透した。サルマティズムはシュラフタ階級のあいだでの母語(民族)・宗教宗派・職業・家柄を超えた平等意識、彼らの騎馬趣味、伝統重視、地方での田園生活、平和主義を奨励したし、オリエントに影響された服飾の流行を生みだした。丈長のジャケットのジュパン(英語版)やスクマナを着てコントシュ(英語版)というマントを広幅のベルトのパス・コントショヴィ(英語版)でとめ、冬にはデリア (衣服)(英語版)というコートを重ねた。筒の太いズボンのシャラヴァルィ(英語版)を履くなどである(腰にシャブラ(英語版)を佩(は)く)。さらには、多民族で構成された共和国の貴族階級に単一民族意識に近い連帯感を、シュラフタの「黄金の自由」に正統性をそれぞれ付与した。 初期のサルマティズムは理想主義的な文化運動として理解できるもので、信仰心、誠実さ、愛国心、勇敢、平等と自由を鼓吹した。しかし、そうした性格は徐々に歪んでいく。後期に現れた過激なサルマティズムは、信心を狂信に、誠実さを政治的無知に、誇りを傲慢さに、勇敢を頑迷に、自由を無秩序に変容させてしまった。サルマティズムは18世紀後半に起きた国家の消滅に責任があったとして非難を受けている。サルマティズムに対する批判は、ラディカルな変革を志向する改革者たちによって、しばしば偏った見地からなされた。この自己批判はまた、ポーランドの消滅は自己崩壊が招いたものだと証明しようとした、ロシア、プロイセン、オーストリアの歴史家たちの著作に同調したものでもあった。 しかしサルマティズムにあるのは否定的な側面ばかりではない。サルマティズムは多元文化主義を機能させるための政治的手段でもあった。サルマティズムにおいて、シュラフタ同士では民族、宗教、宗派、職業、家柄によって政治的に差別されることはなく、誰もが平等に参政権を有した。ここでは共和国におけるシュラフタは共和国市民であり、古代の共和政ローマにおけるローマ市民に相当した。この市民主義は後にポーランドで確立する立憲政治や民主主義の基盤となったものであり、近代の市民はここに生まれたのである。ヨーロッパ初の近代成文憲法である1791年5月3日憲法および当時の一連の改革(世界初の教育省である国民教育委員会の設立を含む)はその内容から、非シュラフタだった階級の人々をシュラフタに引き上げる意味があった。すなわち共和国に住むすべての人々を共和国市民にしようとした試みであり、明らかにサルマティズムの流れに沿ったものであった。
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