前期サルマティズムから後期サルマティズムへの変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/30 16:07 UTC 版)
「サルマティズム」の記事における「前期サルマティズムから後期サルマティズムへの変遷」の解説
当初、「共和国市民」たるシュラフタの理想のあり方として見られていたサルマティズムは良き文化運動として始まった。ヤン・ザモイスキの時代には、敬虔な信仰、思想信条の自由、政治的誠実さ、愛国心、勇敢さ、平等と自由、法の支配および順守といった優れた諸価値が見出されていたのである。しかしジグムント3世王の治世以後に頻発した国内外の政治的・経済的な大変動により、後期サルマティズムにおいては、信仰は不寛容と狂信へ、誠実さは政治的無知へ、誇りは尊大へ、勇敢さは頑固さへ、シュラフタの平等と自由はニヒリズムへと移っていった。 サルマティズムは当初ポーランド・ルネサンス期(ヤン・ザモイスキの時代)に勃興した時代を前期サルマティズムとする。前期サルマティズムはポーランド・バロックとは共存しつつ確固たる地位を築いたが、後期サルマティズムはポーランド啓蒙主義とはイデオロギーにおいて対立することになった。そして18世紀後半には「サルマティズム」の語は上記の後期サルマティズムの文脈と関連づけられ、完全にネガティヴな意味へと変容した。後進性や無知蒙昧さの類義語(啓蒙の反対語)であり、国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキが改革の反対者に貼った「狭量な田舎シュラフタ」という侮蔑的なレッテルにも使用された。そうした意味での使用は最初、勃興期やジャーナリズムや文学作品において見られた。つまり、後期サルマティズムへの反省や批判から、前期サルマティズムへの先祖がえりとして発生したポーランド啓蒙主義の著述家たちは「サルマティズム」(内容から言えば、これは後期サルマティズムを指した)の語が持つ政治的・文化的含意を直情的で非理知的なものと見做し、最も手近な批判と嘲りの対象として使ったのである。ポニャトフスキの支援を受けた戦意あふれる改革者の新聞「モニトル」紙が軽蔑的な意味合いで使い、フランチシェク・ザブウォツキが自身の喜劇「サルマティズム」(1785年)で滑稽に描いたといった例が典型的である。 サルマティズムと古き良きシュラフタの伝統、すなわち前期サルマティズムの価値観は、祖国が地図上から消え去ったポーランド・ロマン主義の時代に再評価を受け始めた。勇敢さと多文化共存社会を熱狂的に求める反乱の時代の人々は、サルマティズムへの憧れを復活させていったのである。この風潮はおそらくポーランドとリトアニアの若者が連帯して行った十一月蜂起の熱狂の中で最も高まっただろう。「シュラフタもの」という小説ジャンルが生まれ、サルマタイ精神を鼓舞した。リトアニアのリプカ・タタール人を先祖とする「ポーランド人」であるヘンリク・シェンキェヴィチの小説、リトアニア人すなわち「ポーランド人」であるアダム・ミツキェヴィチ(「パン・タデウシュ」)、西ウクライナ人(ヴォルィーニ地方出身)すなわち「ポーランド人」であるユリウシュ・スウォヴァツキ、およびジグムント・クラシンスキらの詩に見えるように、サルマティズムの礼讃は敬虔な信仰、思想信条の自由、政治的誠実さ、愛国心、勇敢さ、平等と自由、法の支配および順守といった諸価値を重視した前期サルマティズムの文脈と関連づけられて大きくなっていった(有機的労働、ヤギェウォ主義、モルジュ戦線、ワルシャワ蜂起、独立自主管理労働組合「連帯」、の流れ)。
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