前期イリヤース・シャーヒー朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/13 08:09 UTC 版)
「ベンガル・スルターン朝」の記事における「前期イリヤース・シャーヒー朝」の解説
デリー・スルターン朝のトゥグルク朝の時代、1330年代にムハンマド・ビン・トゥグルクが失政を重ねたことにより、各地で反乱が起きた。南インドではすでに、1334年にマドゥライ・スルターン朝というムスリム王朝が成立し、1336年にはヒンドゥー王朝のヴィジャヤナガル王国が成立するなど、トゥグルク朝の広大な領土は解体しつつあった。 そして、1342年にベンガル地方の長官シャムスッディーン・イリヤース・シャーもトゥグルク朝から独立し、ベンガル・スルターン朝を建国した(前期イリヤース・シャーヒー朝)。創始者シャムスッディーン・イリヤース・シャーはベンガルの独立を強く意識し、その正当性と権威と明白にするため、自分の硬貨に「第2のアレクサンドロス、カリフの右腕」と記している。 しかし、1353年にトゥグルク朝の君主フィールーズ・シャー・トゥグルクは失地回復のためベンガルへと軍を進め、ベンガルの首都パーンドゥアーを攻め落とした。だが、イリヤース・シャーはエクダーラーの要塞に籠城したため、1354年にトゥグルク朝の軍はデリーへと引き上げた。 その息子シカンダル・シャーの時代、1358年にフィールーズ・シャー・トゥグルクが再びベンガルに攻めてきたが、トゥグルク朝の軍は苦戦し、1359年に和平協定が結ばれベンガル王国は独立を認められた。その後、1389年にシカンダル・シャーはその息子ギヤースッディーン・アーザム・シャーによって殺害された。 ギヤースッディーン・アーザム・シャーは1405年、1407年に明の永楽帝に使者を送り朝貢するなど、国際的にも広い視野を持っていたことで知られる。また、彼はメッカ、メディナのマドラサ建設費用を負担している。 1410年、ギヤースッディーン・アーザム・シャーは死亡し、有力な家臣の一人でヒンドゥー教徒のラージャ・ガネーシャが政治の実権をもつようになった。その後もラージャ・ガネーシャの専横は増し、1414年にシハーブッディーン・バーヤズィード・シャーを殺害し、同年にはその息子アラーウッディーン・フィールーズ・シャーも退位させて王位を簒奪した。 こうして、前期イリヤース・シャーヒー朝に代わり、新たにラージャ・ガネーシャを祖とするラージャ・ガネーシャ朝が成立した。
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