前期の文芸活動
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「ハワード・フィリップス・ラヴクラフト」の記事における「前期の文芸活動」の解説
1914年4月、アマチュア文芸家の交流組織に参加したことをきっかけに、ラヴクラフトは小説との関わりを取り戻した。その3年後には、小説の執筆を再開して同人誌に作品を載せるようになった。1915年には、文章添削の仕事を始めていた。ラヴクラフト本人は生涯、文章添削のほうを本職と思っており、創作は余暇の仕事と考えていた。1922年には、作品が雑誌に採用されるようになっていったが、自己の創作能力に自信が持てず、また「書く必要が来たら書く」というスタンスで自らアマチュアであることに甘んじていたため、あまり積極的に創作はしなかった。また、不採用になると非常に落ち込む性格であったため、『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』のように、今日では傑作とされている作品の中にも、自信の欠如のため編集者に送ることすらしなかったものがある。 文章添削の仕事は、当初は無料奉仕、のちも非常に低い報酬でこの仕事を請け負っていた。ラヴクラフトの添削ぶりは、新しいアイデアを提案したり、原文がほとんど残らぬほど書き換えたりと、ほとんどゴーストライターに近いものであった。しかし、この文通は、後進指導の役割も果たし、前述のダーレスを始め、彼を慕う作家が多い理由となっている。ヘイゼル・ヒールドやゼリア・ビショップ)など、ラヴクラフトの添削によってクトゥルフ神話作品を執筆することになった作家も多い。またダーレスの他、ロバート・ブロック、クラーク・アシュトン・スミス、ロバート・E・ハワードらとは膨大な量の書簡を交換している。他にも文通をしていた者は多く、また手紙一通の量も相当のもので創作や文章添削よりも生涯、文通に多くの時間を費やしていた。 1916年、ラヴクラフトは、初期の短編小説「錬金術師」を発表した。同時期に書いた『墓』は、ラヴクラフトが最も影響を受けたエドガー・アラン・ポーの構成スタイルに似通っているとされる。しかし後のクトゥルフ神話に造形の近い『ダゴン(Dagon 、1919年11月)』が初期の作品として注目されることが多い。 1917年、ラヴクラフトは、兵役検査に不合格となった。翌年から母スージィも神経衰弱のような症状で苦しみ出した。1919年3月には、スージィも夫ウィンフィールドと同じくバトラー精神病院に入院したが、その病状に関しては公表されていない。ラヴクラフトにはある種のオイディプスコンプレックスもあったと言われている。ラヴクラフトは、出来る限り母親を訪ね、手紙のやり取りを重ねた。1921年5月24日に母スージィ(サラ・スーザン・フィリップス・ラヴクラフト)は、胆嚢手術の合併症によりバトラー病院で死去した。ラヴクラフトは、強いショックを受ける。 また1919年以降のこの時期、孤独となったラヴクラフトは、ダンセイニの影響を受けた作品を発表している。
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