前期の飛騨川開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:28 UTC 版)
東邦電力は前身の名古屋電灯から木曽川の八百津発電所を引き継いだが、同社はかつて八百津より上流でも木曽川の水利権を獲得していた。だが賤母発電所を着工した段階の1918年に開発部門を木曽電気製鉄(後の大同電力)として独立させ水利権を移しており、結果として東邦電力は成立時関西区域において有力な水利地点を保有していなかった。そこで東邦電力では、木曽川本流に比べて落差が少ないが水量豊富であり水力発電の適地として注目されていた木曽川水系飛騨川での水利権獲得に動き出した。 その飛騨川では、1919年6月、岐阜電気社長岡本太右衛門らにより「岐阜興業株式会社」の名で水利権許可が申請されていた。飛騨川にて3か所の水力発電所の建設(出力計45,000 kW)し、発生電力を岐阜電気に供給するとともに余剰電力で化学工業を起こすという計画に基づくもので、1920年(大正20年)4月までに3地点すべてで水利権を取得、翌1921年11月には会社設立へと進んだ(資本金500万円)。本社は東京で、製紙会社の王子製紙と提携していたことから社長には同社の藤原銀次郎が就いた。岐阜電気を吸収した名古屋電灯の後身である東邦電力では、成立早々岐阜興業の経営を掌握するべく動き出し、1922年6月、岐阜興業の株式のうち6割を取得する。その上で岐阜興業から「岐阜電力株式会社」と社名を改め、代表取締役に成瀬正行、常務に進藤甲兵を就けるなど役員を送って同社の実権を握った。その後経済的に開発すべく計画を見直し、水路式発電所3か所としていた計画を調整池を持つ5か所の発電所に分割するよう改め、順次開発に着手した。そのうち1920年代に建設されたのは七宗・上麻生・金山の3発電所である。
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