シャムスッディーン・イリヤース・シャーとは? わかりやすく解説

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シャムスッディーン・イリヤース・シャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/17 15:51 UTC 版)

シャムスッディーン・イリヤース・シャー(Shamsuddin Ilyas Shah, 生年不詳 - 1357年)、東インドベンガル・スルターン朝、イリヤース・シャーヒー朝の君主(在位:1342年 - 1357年)。

生涯

シャムスッディーン・イリヤース・シャーの出生に関しては、東部イランのシースターンの出身と記録があるのみで、それ以上のことは不明である[1]

イリヤース・シャーは北ベンガルの長官であるアラー・ウッディーン・アリー・シャーの下で台頭したが、1342年に彼を殺害し、その地位を奪った[2]。当時、ベンガル地方は北ベンガル(ラクナーワティー)、西ベンガル(サトガーオン)、東ベンガル(ソーナールガーオン)に分かれており、それぞれ長官が統治していた[3]

同年、長官であったイリヤース・シャーはトゥグルク朝から独立し、ベンガル・スルターン朝を創始した(イリヤース・シャーヒー朝)[4][5][6]。創始者シャムスッディーン・イリヤース・シャーはベンガルの独立を強く意識し、その正当性と権威と明白にするため、自分の硬貨に「第2のアレクサンドロス、カリフの右腕」と記している[7]

1346年までにイリヤース・シャーはベンガル地方の政治的統一に成功したのち、対外遠征を敢行した[8]。彼はビハールを征服、オリッサ(東ガンガ朝)とネパール(マッラ朝)にも侵攻し、遠くチベットにまで遠征した[9]。ネパールやオリッサとの戦いでは莫大な戦利品を獲得した[10]

ことに1349年のイリヤース・シャーのネパールのカトマンズ盆地への侵攻は、この地を支配していたマッラ朝に壊滅的な打撃を与え、政情不安をもたらした[11]。彼の軍勢は首都バクタプルのみならず盆地の都市カトマンズパタンを蹂躙し、その地の寺院、家屋を破壊・放火して、全土を灰燼に帰した[12]。盆地では7日間にわたり徹底して破壊、略奪を行い、そののちベンガルへと帰還した[13]

また、イリヤース・シャーはオリッサに侵入した際、ジャージナガルを攻撃し、あらゆる抵抗を打ち破ったのち、チルカー湖まで進撃したという[14]。ベンガルに帰還したとき、彼は多数のゾウを含めた戦利品を持ち帰ったとされる[15]

イリヤース・シャーの絶え間ない征服活動の結果、領土はティルフットからチャンパラン、ゴーラクプルへと広がり、ヴァーラーナシーにまで版図を広げた[16]。だが、ベンガル・スルターン朝の台頭はトゥグルク朝にとって脅威であった[17]

そのため、1353年にトゥグルク朝の君主フィールーズ・シャー・トゥグルクは失地回復のため、ベンガルへと遠征軍を進めた。軍勢はチャンパランやゴーラクプルを通過し、ベンガルの首都パーンドゥアーを攻め落とした[18]

イリヤース・シャーはガンジス川とその支流に囲まれた強力なエクダーラーの要塞へと逃げ、そこに籠城した[19][20]。2ヶ月の包囲ののち、フィールーズ・シャーは退却するそぶりを見せ、イリヤース・シャーを誘い出して出てきたところで打ち破った[21]。だが、イリヤース・シャーはエクダーラーへと再び逃げ、籠城し続けた[22]

その後、1354年にトゥグルク朝とベンガル・スルターン朝の間で和平が結ばれ、コシ川を両国の国境とすることが定められた[23][24]。イリヤース・シャーはフィールーズ・シャーと贈り物を交換し、トゥグルク朝の軍はデリーへと引き上げた[25][26]。デリーとの友好的な関係を構築したことにより、イリヤース・シャーは東のアッサム方面へと支配を拡大することが出来た[27]

1357年、イリヤース・シャーは死亡し、息子のシカンダル・シャーが王位を継承した[28]

イリヤース・シャーは治世中に多くの業績を残した。そのの成功の要因のひとつは彼自身の人気にあったことである、と歴史家サティーシュ・チャンドラは述べている。フィールーズ・シャーがパーンドゥアーを占領したのち、貴族や聖職者らに人気を得るために土地を与え、都市の住民を味方にしようと試みたが、失敗している[29]

脚注

  1. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.131
  2. ^ 堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57
  3. ^ 堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.56
  4. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.158
  5. ^ 堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57
  6. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166
  7. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.158
  8. ^ 堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57
  9. ^ 堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57
  10. ^ 堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57
  11. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.316
  12. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.316
  13. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.316
  14. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.169
  15. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.169
  16. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166
  17. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166
  18. ^ 堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57
  19. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166
  20. ^ 堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57
  21. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166
  22. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166
  23. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166
  24. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.29
  25. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166
  26. ^ 堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57
  27. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166
  28. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166
  29. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166

参考文献

  • フランシス・ロビンソン; 月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』 創元社、2009年 
  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年 
  • サティーシュ・チャンドラ; 小名康之、長島弘訳 『中世インドの歴史』 山川出版社、2001年 
  • 堀口松城 『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』 明石書店、2009年 
  • 佐伯和彦 『世界歴史叢書 ネパール全史』 明石書店、2003年 

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