ラージャ・ガネーシャ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/13 08:09 UTC 版)
「ベンガル・スルターン朝」の記事における「ラージャ・ガネーシャ朝」の解説
1414年、創始者ラージャ・ガネーシャは王位を宣し、新たにラージャ・ガネーシャ朝を樹立したが、その継承をめぐり宗教的な問題が発生した。 というのは、ゴール朝の侵入以来イスラーム教が根付いて長いベンガルに、ヒンドゥー教徒がベンガルの王となることをムスリムの有力者たちが強く反対していたからだった。一方、ラージャ・ガネーシャも自らのヒンドゥー教の信仰を捨てて改宗する気はなく、両者はラージャ・ガネーシャの死後、その後継者がイスラーム教に改宗することで合意した。 ラージャ・ガネーシャの治世は4年と短かったが、その間に隣国のジャウンプル・スルターン朝と領土を争い、ヒンドゥー教の寺院を手厚く保護した。 1418年、ラージャ・ガネーシャの死後、その息子ジャラールッディーン・ムハンマド・シャーは父王の約束通りヒンドゥー教からイスラーム教に改宗した。ジャラールッディーン・ムハンマド・シャーの名はその際に改名したものである。 ムハンマド・シャーは改宗後、熱烈なイスラーム教徒となり、それを証明するため「アラーのカリフ」自称した。ムハンマド・シャーはその公平さで知られ、軍司令官や裁判長にヒンドゥーを割り当てるなど、ムスリムとヒンドゥー教徒を差別なく平等に扱った。 また、彼の代にベンガル王国の領土は広まり、父王と同様にジャウンプルと争い、チッタゴンやファリードプルなどを得て、南ビハールまで版図とした。彼は明に使者を送り朝貢し、マムルーク朝と使節を交換するなど、国際的にも広い視野を持っていたことで知られる。 1433年、ムハンマド・シャーの死後、その後を継いだ息子シャムスッディーン・アフマド・シャーは正義感の強さと慈悲の深さで知られたが、1436年に家臣の一人によって暗殺された。 こうして、ラージャ・ガネーシャ朝は3代21年という短期間で滅んでしまった。
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