後期イリヤース・シャーヒー朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/13 08:09 UTC 版)
「ベンガル・スルターン朝」の記事における「後期イリヤース・シャーヒー朝」の解説
1436年、ラージャ・ガネーシャ朝が滅亡したのち、ベンガル王国は混乱したが、翌1437年にナーシルッディーン・マフムード・シャーがイリヤース・シャーヒー朝を再興した(後期イリヤース・シャーヒー朝)。 しかし、1434年にオリッサでは東ガンガ朝に代わり新たにガジャパティ朝が成立し、それがベンガル王国の脅威となった。ベンガルはガジャパティ朝にオリッサに有する領土、西ベンガルの大部分を奪われ、ガンジス川流域にまでに侵入された。また、ビルマのアラカン王国もチッタゴン方面に進出し、1459年にはチッタゴン港も占領された。 その息子ルクヌッディーン・バールバク・シャーの治世も同様に、ガジャパティ朝が南ベンガルに侵入し、その対応に追われた。だが、内政面では、ルクヌッディーン・バルバク・シャーは宗教的には宥和政策をとり、文芸活動を支援し、その業績をたたえた碑文がベンガル各地で見られる。 しかし、1481年にその死後に継いだ王シャムスッディーン・ユーフス・シャー、シカンダル・シャー2世は相次いで早世し、1487年に最後の王ジャラールッディーン・ファテー・シャーはアビシニア(エチオピア)人奴隷出身の家臣によって殺された。
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