後期の音楽活動
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「オリヴィエ・メシアン」の記事における「後期の音楽活動」の解説
メシアンの音楽に関しては批判も大きかったが、徐々に広く認められるようになった。1959年にはレジオン・ドヌール勲章オフィシエを受賞、1987年にはグラン・クロワを受賞している。1967年末にはフランス学士院芸術アカデミーの会員に選ばれた。文化相のアンドレ・マルロー、首相や大統領に就任するポンピドゥーやシラクはメシアンの支持者だった。 1962年には日本を訪問して大歓迎され、日本の鳥の歌や印象をもとに『7つの俳諧』を作曲した。『天の都市の色彩』では久しぶりにキリスト教的な主題に立ち戻り、その後の『われ死者の復活を待ち望む』と『我らの主イエス・キリストの変容』という大作がこれに続いた。またオルガン曲『聖なる三位一体の神秘への瞑想』、『鳥のカタログ』の続編にあたるピアノ曲『ニワムシクイ』も作曲されたが、この頃のメシアンの作品は巨大な作品になることが常態化し、作曲にかかる期間も長くなっていった。 1970年代にはユタ州の自然を題材にした『峡谷から星たちへ…』と、唯一のオペラ作品である『アッシジの聖フランチェスコ』の2つの大曲が書かれたが、後者の作曲には1983年までかかった。1978年、70歳になったメシアンはパリ音楽院を退官した。 1984年以降作曲の勢いは落ちて小曲が増え、過去作の回顧的な性格も増大するが、没するまでにオルガン曲集『聖体秘蹟の書』、ピアノ曲『鳥の小スケッチ』、管弦楽小曲『ステンドグラスと鳥たち』・『天より来たりし都』・『ほほえみ』を作曲・初演している。1985年には京都賞を受賞した。癌のため1992年4月27日に没し、ペティシェの別荘に近いサン・テオフレ(英語版)に埋葬された。墓石は鳥の形をしていて、『ハラウィ』の楽譜が刻まれている。完成した最後の作品になった『彼方の閃光…』は没後に初演された。『四重奏と管弦楽のためのコンセール』は4つの楽章が未完成で残され、補作の上で1994年に初演された。
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