後期の詩
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ダンの後期の詩には、たくさんの病気、経済的な貧窮、友人たちの死のすべてが、陰鬱で敬虔なトーンを与えている。その変化はダンがパトロンだったサー・ロバート・ドルアリーの娘エリザベス・ドルアリーの思い出に捧げた詩『この世の解剖』(1611年)の中にはっきりと見られる。この詩はエリザベスの死を人間の堕落と宇宙の滅亡のシンボルとして使い、その死を大きく嘆いている。 『一年で最も短い聖ルーシーの日の夜想曲(A Nocturnal upon S. Lucy's Day, being the shortest day)』という詩は、愛する者を失ったダンの絶望を歌ったものである。その中でダンは、自分は死んでいる、不在・暗闇・死から蘇る、と否定と絶望を表している。この有名な詩はおそらく1627年、友人であるベッドフォード伯爵夫人ルーシーおよび娘のルーシーの二人が死んだ時に書かれたものであろう。興味深いのは3年後の1630年、ダンが聖ルーシーの日(12月13日)に自分の遺言を書いたことである。 ダンの憂鬱なトーンが増していくことは、同じ頃からダンが書き始めた宗教的作品の中にも窺える。懐疑論的だったダンの初期の信仰はこの時期、従来聖書が教えてきた確かな信仰に変わっていた。アングリカン・コミュニオンに改宗してから、ダンはその文学活動を宗教的なものに専念させた。そしてたちまち、深く心を揺さぶる説教と宗教詩でダンは高名になった。具体的に、アーネスト・ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』やトマス・マートン(英語版)の『No Man is an Island』のタイトルはそうした説教の一節から取られている。 人生の最期に向かって、ダンは死に挑む詩を書いた。それは、死んだ者は永遠に生きるために天国に送られるというダンの信仰に基づいたものである。その一例が、「死よ驕るなかれ(Death, be not proud)」の一節で知られる『聖なるソネット10番』である。1631年の四旬節の期間中、死の床にあった時でさえ、ダンは病床から起きて、『死の決闘』の説教を行い、それは後に彼自身の葬式の説教に使われた。『死の決闘』は人生を苦しみと死に向かう定めとし、神、キリスト、復活を受け入れることを通しての救済と不死の中に希望を見いだすものである。
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