後期の経歴と反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 01:07 UTC 版)
勝利の後、ホスロー2世は彼のおじたちに高い地位を与えてその功績に報いた。ヴィンドイは財務長官(treasurer)と宰相(first minister)となり、ヴィスタムはタバリスターンとアスパーフバド家の伝統的な根拠地であるホラーサーン(英語版)を包括する東のスパーフベド(軍司令官)の地位を得た。だが、ホスロー2世はすぐに意思を変え、父親殺害の嫌疑から自身を遠ざけるべく、ヴィスタムを処刑することを決意した。サーサーン朝の君主たちは伝統的に力を持ちすぎた有力者を不信の目で見ており、またヴィンドイの恩着せがましい振る舞いに対するホスロー2世の個人的な怒りも確実にこの決断を後押しした。ヴィンドイはすぐに処刑された。シリア語の史料によれば、彼は兄弟のヴィスタムの下へ逃亡中に捕らえられたという。 兄弟が殺害されたという知らせを受け、ヴィスタムは公然と反旗を翻した。アル=ディナワリによれば、ヴィスタムはホスロー2世に手紙を送り、自身がパルティア王(アルサケス家)の後裔であることを理由に正当な王位があることを次のように伝えた。 そなたは余よりも支配者として相応しくない。まさに余がアレクサンドロスと戦ったダーラーの子ダーラー(ダレイオス)に連なる故に統治者としてより相応しい。そなたらサーサーン家の者たちは不当に我ら(アルサケス家)の上に立っており、我らが権利を簒奪し、我らを不正に取り扱った。そなたの祖先サーサーンは羊飼いにすぎなかったのだ。 ヴィスタムの反乱は以前のバハラーム・チョービンの反乱のように支持者を得てたちまち拡大した。地方有力者や、バフラーム・チョービンの軍団の残党が彼の下へ集い、この流れはヴィスタムがバフラーム・チョービンの姉妹ゴルディヤ(Gordiya)と結婚した後は特に強まった。ヴィスタムは彼を制圧しようとした複数回のサーサーン王室側の攻撃を退け、すぐに4つに分かたれていたペルシアの国土のうち東部と北部全体に権威を確立した。その支配地はオクサス川から西方のアルダビールまで広がっていた。彼は東方へも遠征を行い、トランスオクシアナのエフタルの二人の王子、ShaugとPariowkを捕らえた。ヴィスタムの反乱が起きた時期は不明である。彼のコインから、反乱は7年間続いたことがわかっている。一般的には590年から596年頃であるとされている。しかし、J.D.ハワード=ジョンストン(J.D. Howard–Johnston)やP. Pourshariatiのような何人かの学者はその発生をもっと遅く、アルメニアのVahewuniの反乱と一致する594/5年であると主張している。 ヴィスタムがメディア(英語版)を脅かすようになると、ホスロー2世はいくつかの軍勢を差し向けたが、決定的な成果を得る事はできなかった。ヴィスタムと彼の支持者たちはギーラーンの山岳地帯へ後退し、サーサーン朝軍の複数のアルメニア人部隊が反逆してヴィスタムの下へと走った。最終的に、ホスロー2世はアルメニアのスムバト4世(英語版)(バグラトゥニ家)に奉仕を呼びかけた。彼はクーミス (イラン)(英語版)は(ヘカトンピュロス)の近郊でヴィスタムを捕捉した。戦闘中、ヴィスタムはホスロー2世の意を受けたPariowk(別の史料によれば彼の妻ゴルディヤ)によって殺害された。にもかかわらずヴィスタムの軍勢はクーミスからホスロー2世側の軍勢を退けることに成功した。そして翌年、スムバト4世は再度の遠征によってこの反乱を最終的に終わらせなければならなかった。
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