後期の文芸活動 - 最後の10年
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「ハワード・フィリップス・ラヴクラフト」の記事における「後期の文芸活動 - 最後の10年」の解説
1926年にプロヴィデンスに戻ったラヴクラフトは、1933年までバーンズ通り10番地のビクトリア様式の木造建築に住んだ。ここからの10年間で、いわゆるクトゥルフ神話を軸としたラヴクラフトの代表作が生まれてくることになるが、平均したペースはほぼ1年に1作程度の寡作ぶりである。あいかわらず、他の作家の作品を改訂し、ゴーストライティングを行うことを収入の中心としていた。顧客の1人となっていた奇術師ハリー・フーディーニはラヴクラフトの才能を惜しみ、彼の生活を支援しようと通信社の仕事を斡旋し、それが失敗しても迷信に対する考察やその否定について記述した『迷信の癌 (The Cancer of Superstition)』の代筆を依頼した。しかし、この依頼はフーディーニの死後、フーディーニの夫人が継続を望まなかったために中止となった。 長く別居生活にあった妻ソニアは、新たな仕事が軌道に乗ったため、今度はプロヴィデンスでラヴクラフトとの同居生活に戻ろうと考えたが、ラヴクラフトの叔母たちとの交渉は合意に達することができず、正式に離婚が成立した。その後、彼女は、1933年にカルフォルニアに移住し、1936年に再婚している。 『ウィアード・テイルズ』の読者の間では人気があったが、寡作にして、また雑誌の稿料も文章添削の収入も低かったため、生活は常に貧しいものだった。しかし、晩年に貧困のお陰で古い家に住むという願いがかなったと書簡に書いているように、貧困には鈍感なところがあった。また稿料のアップなどもほとんど要求することがなかった。これは膨大な書簡から察するに、高貴な身分の者は労働するものではないという彼の貴族趣味からきていると考える研究家もいる。経済的に余裕があり健康だった時には、古い時代の細かい事情を調査するため、ケベックやニューオーリンズまで長距離バスを利用して旅行したこともあった。 ライトは、『ダニッチの怪』のような作品を望んだが、ラブクラフトの作品は晩年になるほど、「長すぎ」、「文が難解」ということも含めて、ますますライトの気に入らないものとなっていった。ラヴクラフトはライトに拒否された作品を、『ウィアード・テイルズ』以外の雑誌に作品を送るということをほとんどしなかったので、友人たちが仲介に立ってラヴクラフトの作品を他の雑誌に売り込むということもよくあった。 ラヴクラフトは、1935年、45歳を過ぎてギリシア語をマスターする。1936年にロバート・ハワードが自殺したことに衝撃を受ける。そして、同年に自身も小腸癌との診断を受ける。その後、癌の影響による栄養失調も重なり、翌1937年に死去した。ラヴクラフトは、生涯に渡った科学に対する興味から死に至るまで可能な限り日記を残した。生前に出版された単行本は、1936年にウィリアム・L・クロフォードが出版した中編『インスマウスの影』の1作だけで、それもわずかな部数であった。
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