後期の居館・集落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 09:08 UTC 版)
高崎市の三ツ寺I遺跡は5世紀後葉から6世紀後半にわたって存在した豪族の屋敷跡であり、周囲を幅約30 - 40メートル、深さ約3メートルの濠に囲まれた約86メートル四方の居館であった。濠の両岸は急傾斜で、屋敷側の岸には濠の底から石垣が築かれていた。屋敷の西側に2か所、南側に1か所、濠に向かって張出しがあり、ここには門などがあったと見られている。屋敷は濠に沿って二重から三重の柵もしくは板塀に囲まれており、その内部は柵か塀によって南北に二分されている。南半分には、西側に庇または露台(テラス)のついた約14メートル四方の大型の建物があり、これが正殿と見られる。正殿の4隅の先には3基の石敷遺構と1つの井戸が検出され、この石敷遺構をはじめとして、他の遺構や濠からも祭祀に使われた子持勾玉や勾玉、斧形品、剣形品、鏡形品、臼玉、有孔円板などの滑石製品が発見された。濠からは木製遺物が多く見つかり、農具や建築部材の他に十数点に及ぶ刀形木製品や弓が検出された。その大半は儀器として使われたものであり、石敷遺構は祭祀場であったと考えられる。直径1.5メートル、深さ3.5メートルの井戸は、底に刳りぬきの井戸枠、上には8本柱の覆屋が設けられている。この井戸は単なる水汲み場ではなく祭祀に使われたもので、居住者は日常生活を北半分で送り、正殿では祭祀や儀礼が行われていたと考えられる。『古事記』『日本書紀』『播磨国風土記』などに井水を大王に献上する説話があり、また北魏の酈道元が著した『水経注』には水神鎮撫の儀礼が描かれている。井戸・井水祭祀の痕跡は岡山県真庭市の下市瀬遺跡や奈良県天理市の和爾・森本遺跡にも認められる。地方首長は井戸や井水を管理して祭祀を行い、井戸は首長権の継承儀礼に欠かせず、井水献上は大王への服属を示す儀礼ともなっていたと見られている。三ツ寺I遺跡の正殿には石敷の祭祀遺構にはさまれた広場があり、これは律令制度下の郡衙や官衙にも引き継がれていく。一方、北半分には南側との間に設けられた柵に沿って竪穴式建物がいくつかあり、広場もある。この建物は一辺に竈が置かれた、古墳時代中期後葉以降に一般的に見られる住居である。南と北はそれぞれハレの場、ケの場となっている。屋敷内部からは近畿地方などでつくられたとみられる須恵器の甕や高坏が多数見つかり、金属製品の生産が行われていたことを示す坩堝や、鞴から炉に風を送る管の先に取り付ける羽口も検出され、屋敷の居住者が交易権を広範に支配し、普及しつつあった鉄製の農耕具や武器類をつくっていたことを示唆している。遺跡の北西約1キロメートルの保渡田には愛宕塚古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳という墳丘長60 - 100メートルの3基の前方後円墳があり、6世紀初頭から中頃にかけて世代ごとに造られたと考えられている。付近一帯には多数の消滅した円墳があり、古墳群を形成していた。この古墳群は三ツ寺I遺跡の首長や関係者の古墳と推定される。八幡塚古墳周濠の外側には円筒埴輪を長方形に巡らした区画があり、椅子に座った男女の埴輪が向き合うように置かれ、両手に壺を持つ女子や短甲を着けた武人、鷹飼や猪飼、1列に置かれた飾馬や水鳥などの形象埴輪が出土した。この配置は愛宕塚古墳でも確認されている。 三ツ寺I遺跡周辺には、ほぼ同時期の保渡田、三ツ寺II・III、村東、東下井出などの集落遺跡が分布する。同道遺跡からは6世紀中頃の平均3.18平方メートルの水田が1,292枚以上見つかり、その西を流れる井野川に沿って御布呂、芦田貝戸、熊野堂などの水田遺跡も発見され、この一帯は三ツ寺I遺跡の居住者らの生産の場であったと考えられるようになった。しかしこれらの遺跡は6世紀第3四半期頃の榛名山二ツ岳の噴火による火山灰と軽石流の堆積で壊滅的な損傷を受け、三ツ寺I遺跡の環濠は大方埋没して屋敷は機能を失った。弥生時代には集落全体が濠に囲まれ、首長や地域の住居全体が同一区画内にあったが、古墳時代に入ると三ツ寺I遺跡のように首長の住居、付属施設、政治や裁判、祭祀のためのハレの場を濠によって周辺の集落から隔てるようになった。 渋川市の黒井峯遺跡では、6世紀の第3四半期に三ツ寺I遺跡を埋没させた榛名山二ツ岳の噴火で約2メートル積もった軽石の下から、集落や畑が発掘された。竪穴式住居と平地式住居、平地式建物、掘立柱建物が作業場や畑とともに1,500 - 2,000平方メートルごとに1つのグループを構成していた。竪穴式建物は周囲に幅2、3メートル、高さ30 - 50センチメートルの土堤(周堤帯)を巡らし、竪穴の壁際に細い柱を立て、立壁を造って屋根を支え、屋根の上には土を置いている。出入口には梯子があり、竪穴の土壁は植物を網代に編んだもので覆われていた。東に竈があり、竪穴の周囲には竪穴を掘った際の土を利用して高い堤を築き、雨の侵入を防いでいる。平地式建物は板屋根で、壁には板壁と草壁があった。床部分は丸太を並べた上に板を張って床にした部分と土間があり、土間に置かれた竈の周囲には土師器の甕や甑(蒸し器)などが床に立てられたまま見つかっており、噴火の際に住人が慌てて逃げた状況を示している。畝のある畑が2か所にあり、それぞれの畝の切り方の違いは栽培されていた作物の種類が違っていたことを示唆している。石組の遺構には4×5メートル程度の四角い土壇があり、その上には土師器と須恵器の坏や甕が200個あまり置かれている。また土壇の上には木が生えており、この木を中心に祭りをしたと考えられる。径2メートルのドーナツ状の土壇にも木があり、根元には土師器の坏や甕と臼玉が置かれ、土が被せられていた。幅30 - 80センチメートルの道が住居と住居、住居と畑、住居と祭祀場を結んでいる。建物群の周囲には柴垣があり、集落内では土地の占有が行われていたと見られる。
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