後期の出土品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 09:08 UTC 版)
栃木県南西部の思川・姿川流域は下毛野の中心部であり、小山市の桑57号墳はその合流点付近にある。この古墳は5基から成る喜沢古墳群の盟主墳で、円墳を築造した後で短い前方部を備えた帆立貝形古墳に改造されている。墳丘は約40メートル、高さ約4.5メートルで、喜沢古墳群の他の4基はいずれも径20メートル弱の方墳や円墳である。木棺直葬だが、6世紀前半の造営とされている。後円部の細長い木棺から出土した全長73センチメートルの蛇行鉄剣は、埼玉県行田市の稲荷山古墳の金錯銘鉄剣とほぼ同じ長さで、左右に蛇行するだけでなく7か所の屈曲部が棘状に突出しており、武器よりも呪具であったと考えられている。同じ木棺から3面の鏡、刀子、砥石、冠、玉、耳飾りなどが検出され、鏡の下には4本の歯が見つかった。鈴木尚はこの歯から30歳程度の女性と判定している。他に銅製の鈴、鉄刀なども見つかり、鏡は3面とも径10センチメートル程度の中型のものであった。また木棺より下方で別の刀や剣が出土しているが、木棺の位置や遺物の状況から女性のために造られた古墳と見られ、この女性は副葬品の特徴や立地から水運と関連する呪術的な人物と見られている。 関東地方を中心とした人物埴輪には、顔を赤色顔料で彩色されたものがしばしば見られる。太田市の塚廻り1号墳や同市由良所在の古墳などから出土した盾を持つ男子の埴輪には2、3条の幅広の朱線が施され、そのうちの1本は目から頬へ斜めに引かれている。この朱彩は前述の仙遊遺跡・亀塚遺跡の人面画と酷似している。 6世紀中頃から後期の早い時期にかけて、近畿地方では埴輪はほとんど使われなくなるが、関東、特に群馬県では最後の前方後円墳とされる高崎市の綿貫観音山古墳でも豊富に使われている。女子の埴輪の下衣から足にかけてはほとんどが円筒になっているが、綿貫観音山古墳や伊勢崎市の権現山遺跡の古墳、太田市の由良四ツ塚古墳などからは、裾がスカート状に垂れた裳(も)と呼ばれる下衣を着けた埴輪が出土している。裳には縦縞の文様があり、同様の裳は奈良県高市郡の高松塚古墳の石室や高井田横穴群の線刻壁画、朝鮮半島北部の高句麗古墳壁画(水山里壁画古墳、安岳二号墳、角抵塚など)などに見られる。古墳時代後期の太田市塚廻り4号墳では首飾りをつけた女子の埴輪も検出され、塚廻り3号墳からは上衣の袖を肩まで上げ、右肩から左脇へ帯状の布を襷掛けし、腰に鈴鏡をさげた巫女の埴輪も出土している。 男子の人物埴輪では頭に被り物をつける例が多いが、女子には被り物は見られない。伊勢崎市権現山遺跡や同市波志江町に所在する古墳から出土した埴輪は正面が盛り上がった山形の冠を被っている。高崎市の八幡原古墳では西欧風で上縁が鋸歯状になった冠、邑楽郡大泉町の古墳では両側面に大きな山形の縦飾りを付けた細帯式冠を被った埴輪が出土している。帽子を被った男子の埴輪は冠を被ったものよりもはるかに多く見つかっており、その表現から、実際の帽子は布や皮革で作られていたと見られる。頭頂部が高めでつばがある帽子を被った埴輪は刀を持って正装していることが多く、冠を被った埴輪と並んで上層階級に属する人物を表現していると見られる。太田市の塚廻り3号墳や高崎市の綿貫観音山古墳ではこうした帽子を被った埴輪が見つかっており、後者の帽子は広いつばに双脚輪状文の刻みが施されている。また、太田市のオクマン山古墳や塚廻り4号墳では、つばのない帽子を被った男子の埴輪が出土している。 綿貫観音山古墳では獣帯鏡も検出されており、これは他に滋賀県野洲市の三上山下古墳や韓国公州市の宋山里古墳群の斯麻王大墓で出土している。斯麻王大墓で銅鏡が副葬されていた事例は、韓国の古墳としては例外的である。高崎市の蟹沢古墳で出土した三角縁神獣鏡は、兵庫県豊岡市の森尾古墳、山口県周南市の御家老屋敷古墳のものと同様に銘文に「正始元年」と記されており、日本では紀年のある鏡は他に1面しか出土していない。
※この「後期の出土品」の解説は、「毛野」の解説の一部です。
「後期の出土品」を含む「毛野」の記事については、「毛野」の概要を参照ください。
- 後期の出土品のページへのリンク