後期の行政区画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 08:11 UTC 版)
「オスマン帝国の行政区画」の記事における「後期の行政区画」の解説
オスマン帝国が衰退するにつれて、帝国の行政機構は崩壊の危機をはらんでいた。1861年にはヨーロッパに支援されたマロン派キリスト教徒によって、レバノン山脈に自治県が作られたこともあった。タンジマートの改革の一環として、帝国全土のエヤレトを廃止し、これまでのエヤレトをより小規模にしたヴィライェト(州)を創設することが1864年に決まった。ヴィライェトの統治には、国会(Porte)で指名されたワーリ(総督)が当てられ、さらに州議会が新たに創設されることとなった。また、ヴィライェトの下位にはサンジャク(県)とムタサリファト(県)が置かれたが、セルビア公国やルーマニア公国、モンテネグロ公国といったオスマン帝国の属国が、州制度に組み込まれることはなかった。
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