1984年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:05 UTC 版)
「ABCフラッシュニュース」の記事における「1984年以降」の解説
タイトル映像は1984年に一新され(「ABC」のロゴも初代から2代目に)、BGMも変更された。当時朝日放送のサテライトスタジオ「ABCエキスタ」があった大阪駅のアクティ大阪(現:大阪ステーションシティサウスゲートビルディング)といった近畿地方の都市などを線画(ワイヤーフレーム)で示し、世界地図のような近畿地方の地図アニメーションが出てくるものになった。 1989年4月に朝日放送の通称が「ABC」に統一され、「ABC」のロゴマークがマイナーチェンジされたため、パラボラアンテナが立ち上がるCGに、後に高速道路の沿道の看板にタイトルが表示されるものなどに変わった。
※この「1984年以降」の解説は、「ABCフラッシュニュース」の解説の一部です。
「1984年以降」を含む「ABCフラッシュニュース」の記事については、「ABCフラッシュニュース」の概要を参照ください。
1984年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 20:56 UTC 版)
そして関西の松元正雄厩舎に転厩し1年1ヵ月後の1984年9月に復帰。原田聖二を鞍上に据えて阪神、京都の障害オープンで連続で2着となり、続く京都大障害(秋)ではスタートから逃げを打ち、最終障害を越えて一時スナークシルバーと並走したが、最後の直線だけで2着スナークシルバーに1.9秒の大差をつけて重賞初勝利を挙げた。そして暮れの中山大障害(秋)では1番人気に支持されたがメジロアンタレスから3/4馬身差の2着。翌1985年春の大障害でも6頭が大竹柵で競走中止するアクシデントのなかブルーフラールに敗れて2着となった。しかし、関西では京都大障害(春)にレコードで勝利して春秋連覇を達成、その後も6月と9月の阪神での競走をに勝利して3連勝を挙げた。10月に東京の障害オープンで3着となり、それから再び戦列を離れた。 1986年3月に中山の障害オープンで復帰して3番人気となったが、ここは勝ったオンワードボルガから5秒差の7着と惨敗。中山大障害(春)は9頭立ての4番人気と低評価だった。しかしレースでは当初2番手を進み、大竹柵で大逃げを打っていたカルストンイーデンが転倒すると、代わって先頭に立ち、直線に向くと追いすがるオンワードボルガ、シノンシンボリを逆に突き放して8馬身差で優勝した。なお鞍上は前走、前々走に騎乗した星野忍となる予定だったが、病気のため乗り替わりとなり、大江原哲に手綱が戻っていた。 それからは中山大障害に的を絞って調整された。同年暮れの大障害ではオンワードボルガと共に単枠指定となり2.0倍の1番人気に支持されたが、オンワードボルガは水濠で競走を中止し、ライバコウハクは軽快に逃げたものの、最終障害を越えてハッピールイスに並びかけられると、あっさり先頭を譲って9馬身差の2着。これで中山大障害4度目の2着となった。翌1987年春もスタートから離して逃げたが、大生垣を越えてから飛越が雑になり、最終障害手前でメジロアンタレスに抜かれると、直線手前でトウショウドリーム、ミネノカガヤキにも抜かれて4着に終わった。そして同年秋の大障害で大竹柵を越えて3、4コーナー中間の土塁障害を飛越直前に右後脚を骨折、右第3中手骨開放骨折を発症。飛越後、転倒し、予後不良と診断された。
※この「1984年以降」の解説は、「ライバコウハク」の解説の一部です。
「1984年以降」を含む「ライバコウハク」の記事については、「ライバコウハク」の概要を参照ください。
1984年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 00:12 UTC 版)
「ロジャー・ダルトリー」の記事における「1984年以降」の解説
1984年、解散後初となる5枚目のソロ・アルバム『パーティング・シュッド・ビー・ペインレス』をリリース。シングル「Walking In My Sleep」が全英56位、全米62位につけるも、内容が大人しく地味だったためかアルバム自体は全米102位に終わり、セールス的には奮わなかった。しかし、翌1985年に、タウンゼントが楽曲提供したシングル「アフター・ザ・ファイヤー」がヒット。日本でもスズキ・カルタスのCMソングに起用された。同曲を収録した6枚目のアルバム『月の影』は、プロデューサーにアラン・シャックロックを、当時人気絶頂のブライアン・アダムスをゲストに迎え、さらにダルトリー自身もソングライティングに積極的に関わった意欲作となり、チャートでは全米42位、全英52位につけた。このアルバムを引っ提げ、ソロでは初のコンサート・ツアーを敢行する。ツアーではザ・フーの楽曲も披露し、盛況であった。 1987年、前作同様アラン・シャックロックと組んで制作した7枚目のソロ・アルバム『今宵、シネマで』をリリースするもチャート・インを果たせず。しばらくソロでの音楽活動から遠ざかるが、1989年のザ・フーのデビュー25周年記念ツアーを経て、良い刺激を受けたダルトリーは再びソロ・アルバム製作に意欲を燃やす。1992年、8枚目のソロ・アルバム『Rocks In The Head』をリリース。だがプロモーション不足と北米限定での発売ということもあり、前作同様チャート・インを果たせなかった。その後、ダルトリーのソロ名義でのオリジナル・アルバムは2018年まで製作されなくなる。同年、フレディ・マーキュリー追悼コンサートに出演、「アイ・ウォント・イット・オール」を歌唱した。 ザ・フー結成30周年となる1994年、オーケストラを従えてザ・フー時代のナンバーを演奏するソロ・ツアーを敢行。初日のカーネギー・ホール公演にはタウンゼントやエントウィッスルも参加した。当時不安神経症を抱えていたタウンゼントは参加を断ろうとし、ダルトリーを激怒させたが、その後気を取り直して参加を決めた。このコンサートの模様を収録した『ア・セレブレーション - ザ・ミュージック・オブ・ピート・タウンゼンド・アンド・ザ・フー』は年内に発売された。収録曲の中にはタウンゼントのソロ・ナンバーをダルトリーが歌ったものもあった。 1996年、ザ・フーのロックオペラ『四重人格』(1973年発表)の再演ツアー以降、ザ・フーとしての活動が主軸になるが、2009年、北米およびカナダで久々にソロ・ツアーを行う。バンドメンバーの中にはタウンゼントの弟でミュージシャンのサイモン・タウンゼントも含まれた。2010年にはエリック・クラプトンと共にジョイント・ツアーを敢行。2011年にはソロ・ツアーで『トミー』を再演する。2012年4月にはソロで来日し、東京・横浜・大阪・名古屋で公演を行っている。 2014年、ウィルコ・ジョンソンとコラボレートしたアルバム『ゴーイング・バック・ホーム』をリリース(全英3位)。 2018年、26年ぶりのソロ・アルバム『アズ・ロング・アズ・アイ・ハヴ・ユー』を発表(全英8位、全米194位)。アルバムにはタウンゼントも参加している。
※この「1984年以降」の解説は、「ロジャー・ダルトリー」の解説の一部です。
「1984年以降」を含む「ロジャー・ダルトリー」の記事については、「ロジャー・ダルトリー」の概要を参照ください。
1984年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 14:21 UTC 版)
「ピート・タウンゼント」の記事における「1984年以降」の解説
1985年、プリンスの映画『プリンス/パープル・レイン』に触発され、映画を製作することを決意する。11月、6作目となるアルバム『ホワイト・シティ』(全米26位、全英70位)および同タイトルのビデオ作品を発表。これは、タウンゼントが少年時代によく訪れていたロンドンにあった移民が住むスラム街を舞台としたストーリー仕立てのコンセプト・アルバムで、1986年より『ホワイト・シティ』の設定上にあるバンド「ディープ・エンド」の名でコンサートツアーを開催、メンバーにはピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモアやサイモン・フィリップスも参加し、総勢17人による大編成バンドとなった。同年8月にはこのライブの模様を収録した『Deep End Live!』がリリースされた(全米98位)。また1985年には自身初の短編小説集「Horse's Neck(邦題:四重人格)」を発表している。 1986年、詩人のテッド・ヒューズの作品「アイアン・マン」(マーベル・コミックの同名作品とは別の物語)のミュージカル化に着手。製作中、1974年からザ・フーのマネージャーを務めてきたビル・カービシュリーの妻、ジャッキーから「これをザ・フーとして発表すべきだ」と進言されたが、タウンゼントがザ・フーにはそぐわない作品だとして難色を示した。結局アルバム『アイアン・マン』(全米58位)は1989年にタウンゼントのソロとして発表され、収録曲のうち2曲がザ・フー名義として扱われるに留まった。しかし同年には、デビュー25周年を記念してザ・フーでのコンサート・ツアーが行われた。『アイアン・マン』の舞台版はその後1993年に上演され、1999年には「アイアン・ジャイアント」と改題されて、ワーナー・ブラザースにより劇場アニメ化された。 ツアーを終えた1991年秋頃から、タウンゼントはコンセプトアルバム『サイコデリリクト』の製作に取り掛かる。本作は彼が書いた物語「Ray High And The Glass Household」を下地にしており、『トミー』や『四重人格』同様ロック・オペラの流れを汲む意欲作であった。アルバムは1993年6月にリリース。アルバムは曲と語りを交互に配した作りになっていて、語りの部分を抜いた音楽のみのバージョンもリリースされている。だがこの意欲作はセールス的には惨敗に終わっており(全米118位)、この結果に気落ちしたのか、タウンゼントはレコーディング・アーティストとしては廃業する事を宣言する。この宣言どおり、彼のソロでのスタジオアルバムは、以降2017年現在まで製作されていない。『サイコデリリクト』に伴うツアーも敢行され、ニューヨーク・ブルックリンでの公演が2003年にライブアルバム『Pete Townshend Live BAM 1993』として発表され、2006年にはDVDとしてもリリースされている。 1996年より自叙伝の執筆を開始。2012年にようやく完成し、『フー・アイ・アム』と題されて出版された。 1990年代後半からはザ・フーとしての活動が主軸になるが、1999年12月、タウンゼントが長年構想を温めてきたロックオペラ『ライフハウス』がラジオドラマとして発表される。ドラマはBBCラジオ3から放送された。このドラマは2000年に6枚組みのCDボックス『Lifehouse Chronicles』としてインターネット販売され、ラジオを聞けなかった人達の元にも届けられた。CDボックスには、ラジオドラマで放映された音源だけでなく、1970年代前半に作られたデモ・トラックも収録されている。2001年、1979年から翌年にかけて行われたプライベートコンサートの実況盤『The Oceanic Concerts』をリリース。共演のラファエル・ラッドとはミハー・ババの信者同士の仲である。 2003年1月、児童ポルノサイトにアクセスした容疑で一時身柄を拘束され、家宅捜索を受ける。5月には不起訴処分となる。 2004年、ザ・フーとして初来日を果たす。横浜と大阪の2会場で開催されたロックフェス「The Rock Odyssey 2004」に出演。なお、この時のライブで、ザ・フーの次に登場したエアロスミスのジョー・ペリーが、MCでザ・フーから受けた影響と同じステージに立てる喜びを述べた。 2008年より、新たなるロックオペラ『フロス』の制作を進めている。タウンゼントによればもう一つの『四重人格』となる作品であり、『ライフハウス』と同じくらい困難な作品になるという(2017年現在ではまだ未完成である)。 2015年、『四重人格』のロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団とロンドン・オリアーナ合唱団によるオーケストラ版『Pete Townshend's Classic Quadrophenia』をリリース。アルバムは全英チャートの32位にランクインし、クラシック・チャートで1位になるには十分なセールスを上げたが、オリジナルがロック作品であるとして、クラシック・チャートから除外された。同年7月5日、ロイヤル・アルバート・ホールにてオーケストラ版『四重人格』が演奏された。 2019年、自身初の長編小説「The Age Of Anxiety」を発表。
※この「1984年以降」の解説は、「ピート・タウンゼント」の解説の一部です。
「1984年以降」を含む「ピート・タウンゼント」の記事については、「ピート・タウンゼント」の概要を参照ください。
1984年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 07:53 UTC 版)
「ホンダ・NS500」の記事における「1984年以降」の解説
ホンダの関係者は、NS500のファクトリーマシンとしての開発作業は1983年で終了したと明言している。デビュー2年目でタイトルを獲るほどの活躍を見せたNS500だったが、パワーアップしてくるライバルの4気筒に対して3気筒で立ち向かうには遠からず限界がくることを見越していたホンダは、1983年の春には次期主力となる4気筒マシンの開発をスタートさせていた。そして1984年シーズンはV型4気筒のNSR500をデビューさせてスペンサーに与え、チームメイトのハスラムと片山をNS500に乗せた。しかしガソリンタンクと排気管を上下逆に配置するという斬新なレイアウトだったNSR500はアイデアは良かったものの熱い排気管が発する熱気をキャブレターが吸うことによりキャブレターセッティングが非常に困難で、結果を残せないNSRに業を煮やしたチームとスペンサーは第5戦ドイツGPでNS500を使うことを決めた。久しぶりに3気筒に乗ったスペンサーはポール・トゥ・ウィンというこれ以上ない結果を出し、これ以降スペンサーはコースによってNSRとNSを使い分け、第9戦ベルギーGPではNSによる2勝目を上げた。また、この年のシーズン途中からチームに合流したランディ・マモラが第8戦オランダGPと最終戦サンマリノGPで勝利を上げ、NS500は全12戦の1984年シーズンのグランプリで通算4勝というNSRやYZRと並ぶ勝利数を上げたのである。 1984年の教訓もあり、1985年シーズンのスペンサーのピットにはNSR500と共に常にNS500が準備されていた。しかしタンクをエンジンの上に置くオーソドックスなレイアウトに戻った1985年型NSR500とスペンサーの組み合わせはあらゆるコースで圧倒的な速さを発揮し、予選で数回使用した以外は1985年シーズンのレースでスペンサーがNS500に乗ることはなかった。一方、この年もNSR500は言わばスペンサー専用であり、片山やマモラ、ワイン・ガードナーといったスペンサー以外のホンダサポートライダーのマシンは依然としてNS500だった。前年までは4気筒勢と互角の走りを見せたNSだったが、チームやメカニック個人のレベルでの様々な改良が加えられたとはいえ日進月歩のレーシングマシンにおいて2年前に開発が終了したマシンの戦闘力不足は否めず、スペンサーのNSRはもとよりエディ・ローソンやクリスチャン・サロンのYZRからも遅れを取るレースが続いた。そんな中で雨のレースとなった第7戦オランダGPではスペンサー、ローソン、サロンの転倒リタイヤにも助けられてマモラが勝利、ハスラムとガードナーが2,3位となってNS勢が表彰台を独占した。このマモラの優勝が、NS500がグランプリで記録した最後の勝利だった。 1986年シーズンになるとスペンサーのチームメイトとなったガードナーにもNSR500が与えられ、NS500は有力プライベーターへのサポートとして貸し与えられた。後のサテライトチームのような位置づけである。この年にレイモン・ロッシュとディディエ・デ・ラディゲスが乗ったマシンは、NSRと同じツインスパータイプとなったRS500RのフレームにNS500のエンジンを搭載したものだった。この年は第9戦イギリスGPでラディゲスが獲得した2位表彰台が、NS500の最上位だった。 1987年はNS500がグランプリで上位を走る活躍を見せた最後のシーズンとなった。V4エンジンのワークスマシンが10台以上エントリーし、ワークスマシンでなければポイント獲得すら難しいという状況になっていたこの年、チーム・ガリーナのピエールフランチェスコ・キリはRSのツインスパーフレームに無限がチューンしたNSのエンジンを積んだマシンに乗り、開幕戦の日本GPで4位に入り第8戦フランスGPでは2位表彰台を獲得するなど、度々ワークスマシンに割って入ったのである。キリはこの活躍によって翌1988年にはワークスNSR500が与えられ、この1987年のフランスGPを最後にNS500に乗るライダーが表彰台に上ることはなくなった。
※この「1984年以降」の解説は、「ホンダ・NS500」の解説の一部です。
「1984年以降」を含む「ホンダ・NS500」の記事については、「ホンダ・NS500」の概要を参照ください。
1984年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 21:09 UTC 版)
1986年から角川文庫で行われた「ファンタジーフェア」と、テーブルトークRPGなどを扱っていたパソコンゲーム誌『コンプティーク』を母体に、1988年に角川スニーカー文庫と富士見ファンタジア文庫が刊行される。同時に富士見書房から、テーブルトークRPGなどの非電源ゲームに特化した『ドラゴンマガジン』が創刊され、紙面の半分程度を同文庫に収録される作品などの連載に割いていた。 富士見書房は1989年からファンタジア大賞(当時はファンタジア長編小説大賞)の選考を開始し、準入選に神坂一らが選ばれた。当時のミリオンセラーを列挙すると『ロードス島戦記』、『スレイヤーズ』、『フォーチュンクエスト』、『魔術士オーフェン』、『風の大陸』などが挙げられ、「ファンタジーフェア」以来の和製ファンタジー小説を中心にヒットを飛ばしていた。 富士見ファンタジア文庫を刊行している富士見書房は、角川書店の子会社として設立された経緯から角川書店との関係が深く、元々は国文学主体の出版社であった角川書店が出版しない官能小説やアイドル写真集などの書籍を富士見書房の名前で発売するという形態を取っていた。その後、角川書店に合併されてからは角川書店富士見事業部となり、「書房」とは名乗っているものの角川書店の一部門であった。富士見書房に限らず、初期ライトノベルレーベルの大半は角川書店の傘下にあり、長く角川メディアオフィス系の角川グループがジャンルの主導権を握っていく。
※この「1984年以降」の解説は、「ライトノベル」の解説の一部です。
「1984年以降」を含む「ライトノベル」の記事については、「ライトノベル」の概要を参照ください。
- 1984年以降のページへのリンク