後期ウィルバンクス相(紀元1325年頃 - 1375年頃)
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「エトワー」の記事における「後期ウィルバンクス相(紀元1325年頃 - 1375年頃)」の解説
「プラザ」、「防御柵」と「環濠」の形成及びマウンドCの副葬品の充実首長制国家の繁栄と崩壊 後期ウィルバンクス相(Late Wilbanks Phase, 紀元1325年 - 同1375年)になると、エトワー自体が完成へと近づいていく。マウンドA, B, Cの最終段階の造営が行われる。加えてマウンドAの東側が居住区から低い石の壁で囲って内部を敷き詰めて舗装した「プラザ」(儀礼を行う広場)が形成される。「サザン・カルト」に関連するマウンドCの副葬品が出揃うのもこの時期で、マウンドCの周縁部分に、この時期の埋葬が確認されている。エトワーの周囲には半円形の「堀」ないし「環濠」がこの時期に造られ、防御柵が「堀」の内側にめぐらされる。 エトワー河谷では、前期ウィルバンクス相の時期に出現した五つの単一マウンドのセンターに加えて新たに二つの単一マウンドセンターが現れる。それは、エトワー本体からそれぞれ70km近く東方および西方に位置し、確実なことはいえないが、エトワーの首長制国家の勢力範囲ないし政治的な影響下にあったと思われる。14世紀の終わりごろにエトワーとマウンドを伴うセンターは放棄される。これは他の河川流域にまでまたがる首長制国家の衰退であったと思われる。エトワーの最期について知るには、考古学的データからその理由についていくらかの手がかりからその過程が探れる。まず、後期ウィルバンクス相の終末期には、防御柵が燃やされていることがわかっている。このような突発的な防御柵の焼失は、柵の灯火が燃え広がったか、住民によるものと想像される一方、外部からの軍事的な攻撃によるものと考えることもできる。エトワーのマウンドCで、最後に行われた埋葬活動について柵の焼失という事件に関連するとおもわれる異様な状況が確認されている。つまり、Lewis Larsonによって埋葬15と呼ばれた墓があるが、大理石製の男性の胡坐をかいた像と正座した女性の像が1体ずつと、粉々に砕かれて撒き散らされた4体の像と副葬品が発見されている。埋葬15で発見されたその像は、エトワーの首長制国家の先祖ないしはその首長のリネージ(血縁)の創設者を表していると考えられる。もしそうであるなら、埋葬15の像が破壊されていることは、そのリネージによる支配の終焉を示す象徴的な出来事といえることになる。Larsonは、埋葬15について、この像がより上層に位置する副葬品とごちゃ混ぜに攪乱されて墓の床面に撒き散らされていたことを報告している。ひとつの解釈として、この像が急いで埋められたのは、ある種の強制力によって埋められたこと、そしてそのような強制力は軍事的な攻撃に脅迫されてのことだろうと推察される。 埋葬15の被葬者の遺骸と副葬品がこなごなにされてマウンドCの頂上に向かう通路にも撒布されている状態であることは、民族誌的な解釈からも外部からの侵略者が聖域とされる神殿を荒らして略奪することと解釈されることからも、そのような暴行があったであろうことを想像させるのに十分であるように思われる。あくまでも大まかな状況証拠でしかないが、後期ウィルバンクス相のエリートたちは、暴力的な破壊による結末を迎えたと思われる。エトワーの住民は、エルナンド・デ・ソト(Hernando de Soto)と彼の軍勢が町を訪れる直前までエトワーに戻ることはなかった。
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