後期サルマタイ時代の遺跡
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「サルマタイ」の記事における「後期サルマタイ時代の遺跡」の解説
後期サルマタイ時代は1世紀に黒海北岸に登場したアラン(アラノイ)の民族名からアラン文化期と呼ばれる。後期サルマタイ時代の埋葬の特徴はヴォルガ・ドン地方では小規模な墳丘を築く円墳であるが、ウラル川流域ではその時代に新たに築いた東西に長い墳丘が見られる。墳丘下には小規模なポドボイ墓や幅の狭い方形墓壙が作られた。ポドボイでは入口坑の西壁に墓室が穿たれた。また、北カフカスでは地下式横穴墓が分布し、ドニェストル・ドナウ両河間では墳丘を築かない土壙墓が見られる。墓は旧地表面で丸太や木材、芝土、枝や葦で閉塞された。埋葬は単独葬が大半であり、仰臥伸展葬で北あるいは南を枕にした。ポドボイ墓や狭い墓壙では北枕が主流である。そして、この時代の最大の特徴は南ウラル地方、ヴォルガ川下流域、ヴォルガ・ドン両川間でみられる被葬者の頭骸変型である。頭骸変型は紀元前後から散発的にみられたが、この時代に非常に発展した風習である。一方、死者に供える家畜は肢などの一部のみである。また、墓では前時代同様に白亜の塊がみられたが、硫黄の塊や火打石を削った痕跡もしばしば検出された。墓に火を放った痕跡はすくなく、儀礼は簡素化されたとみなされている。副葬品は武器、道具、装飾品、化粧道具、香炉、護符などである。武器では環頭剣と短剣、鏃が見られ、剣は被葬者の左、短剣は右に置かれ、鏃は少数である。馬具は通例被葬者の足下に置かれた。装飾品としては帯飾板、フィブラ、頸飾りの一部として発見される小型柄鏡あるいは垂飾などがある。小型の柄鏡は前代から発展していたものであるが、この時代には鏡というよりも垂飾として使用されたと考えられている。土器は手捏ねろくろ製があり、後者はドン川やクバン川流域あるいはボスポロス王国で製作されたものである。動物形把手が付いたろくろ製水差型土器はこの時代に特徴的な資料である。また、ヴォルガ川左岸ではホラズム製の化粧土のかかった赤色土器が登場している。 レベデフカ村古墳群 後期サルマタイ時代の注目される遺跡の例としては、ウラル川左岸流域にあるレベデフカ村古墳群が挙げられる。レベデフカの古墳群は8群に分かれ、サウロマタイからサルマタイの埋葬が101基発掘された。そのうちの50基が後期サルマタイ時代に編年されている。埋葬形態は23基がポドボイ墓、17基が幅の狭い竪穴墓、4基が墓壙の広い墓であった。被葬者は仰臥伸展葬、北枕で安置されていたが、2基のポドボイ墓では屈葬であった。また、20体に頭骸変型が確認されたが、そのうちの半数以上がポドボイ墓で検出された。第5墓群23号墳の主体部は墓壙が広く、副葬品が豊かな墓であった。主体部には男性が安置され、中国の内行花文鏡、青銅製フィブラ、金製アップリケ、中央アジア起源のろくろ製赤色片手壺型土器、低い器台のある青銅製パテラ、長い柄のある鉄製柄杓などが副葬されていた。23号墳には追葬墓が造られ、棺に男性が安置され、玉髄の柄頭をもつ鉄製長剣、短剣、長い砥石、青銅製フィブラ、可動式舌の付く青銅製小型バックル、ガラス製ゴブレットが副葬されていた。墓は共に2世紀から3世紀前半に編年された。そして第6墓群1号墳は、東西に並ぶ2つの墳丘を長さ34m、幅10〜14m、高さ0.3〜0.5mの土塁が連結した形であった。埋葬は東側の墳丘下のポドボイ墓で行われていた。副葬品は鉄製長剣、鉄製銜、ボスポロス製ガラス容器片、青銅製フィブラ、円形の金製アップリケ、鉄製ナイフなどである。長剣は”金属製柄頭のない剣”に分類される型式であり、柄頭の部分に円盤状の玉髄を伴ういわゆる”玉具剣”である。この玉髄の上にはシーレーンの顔あるいは獅子=人面が型押しで表現された金製装飾板が取り付けられていた。飾板の縁と額および両頬にガラスが象嵌され、象嵌座の周りは細粒が取り巻いている。A.M.ハザーノフによれば、金属製柄頭のない剣は2世紀〜4世紀に盛行しているが、玉具剣はサルマタイでは類例が少ないという。ガラス容器とフィブラによって墓は2世紀〜3世紀前半に編年された。
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