後期スリーピート
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「マイケル・ジョーダン」の記事における「後期スリーピート」の解説
1994-95シーズン終了後のオフ、ジョーダンはバスケットボールの体型を取り戻すべく、そして再び優勝を狙うために懸命にトレーニングを行った。オフにはジョーダン主演の映画撮影も行われたが、映画撮影の場所付近にジョーダン専用のバスケットボールゴールを設置。ジョーダンの呼びかけに、ピッペン、オニール、レジー・ミラーなどNBAの主力選手が集まり、ジョーダンと共に練習をした。後にジョーダンは、このオフの練習で従来のバスケットボールの感覚を取り戻し、相手選手の動きを把握できるようになったといった。 1995-96シーズンが始まると、ブルズは快進撃を続け、NBA史上最高の勝利数を狙えるほどの勢いだった。ジョーダン、ピッペン、そしてかつての宿敵デトロイト・ピストンズでプレーしていたデニス・ロッドマンがサンアントニオ・スパーズから移籍してきてリーグ最強の3人組として注目を集めた。また、欧州出身の長身シューターであるトニー・クーコッチ、優秀なディフェンダーであるロン・ハーパーも陰からチームを支えた。ジョーダン自身は、1993年以前の強烈なスラムダンカーというよりは、技巧的なジャンプシューターとしてプレーしていたが、平均得点30.4で8度目の得点王に輝くことになる。 シカゴ・ブルズは72勝10敗でレギュラーシーズンを終えた。この勝ち数はゴールデンステート・ウォリアーズが2015-16シーズンに記録するまでのレギュラーシーズン最多勝利記録(ウォリアーズが73勝9敗で新記録)であり、70勝を超えたチームも歴史上初だった。ブルズは数字上史上最強のチームとしてプレーオフに臨み、NBAファイナルでシアトル・スーパーソニックスと対戦。敵地のシアトルで2試合を落としたものの、6試合目にシカゴに戻り4度目の優勝を決めた。ジョーダンは再びファイナルMVPを受賞した。 続く1996-97シーズン、ブルズは前シーズンより3勝少ない69勝でレギュラーシーズンを終える。プレーオフでは、このシーズンもブルズはファイナルに進出。ウェスタン・カンファレンスからは、ユタ・ジャズが勝ち上がってきた。史上屈指の名コンビと言われるジョン・ストックトンとレギュラーシーズンのMVPカール・マローンを相手に、シリーズは4勝2敗でブルズがものにする。初戦のブザービーターや敵地ソルトレイクシティでの病気を押してのパフォーマンスが注目されたジョーダンが再びMVPに選ばれた。ブルズとジョーダンの優勝回数は5回となっていた。 続く1997-98シーズンは、フィル・ジャクソン監督がシーズン後の退任を早い時期から仄めかしており、ピッペンはチーム経営陣との関係を悪化させていた。強豪ブルズは今年で最後かという観測を、マスコミはジャクソンの表現を借りラストダンスという言葉で表した。復帰以降、マスコミやファンはしばしばジョーダンの年齢を話題にするようになっており、「いつまでプレーするか」が関心の的になっていた。ジョーダンは「ジャクソン監督とピッペンが辞めれば自分も辞める」と発言していたが、自身の進退については明言を避けていた。このシーズンはブルズの2度目の「スリーピート」がかかっており、様々な意味で注目を集めることになった。 ブルズはNBAファイナルに進出し、対戦相手はこの年もユタ・ジャズだった。両チームともレギュラーシーズンは62勝20敗だったが、シーズン中の対戦成績に勝っていたユタ・ジャズがホームコートアドバンテージを得ていた。 5戦目までで3勝2敗でシリーズの舞台をユタに戻し、臨んだ第6戦、ジョーダンは残り5.2秒で決勝シュートを決め、ブルズに6度目の優勝と2回目のスリーピートをもたらした。この時、解説者のアイザイア・トーマスは「第4クウォーターのマイケルは殺し屋 (killer) だ」と述べた。 ジョーダンはシーズン終了後の1999年1月13日に2度目の引退を発表した。
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後期スリーピート
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「スコッティ・ピッペン」の記事における「後期スリーピート」の解説
失意のうちに終わった前シーズンのあと、1995-96シーズンのシカゴ・ブルズは歴史に残る躍進を遂げる。 復帰当初は精彩を欠いたジョーダンは、このシーズン再びリーグ最高の選手として活躍を開始した。そして、前年の屈辱的な敗戦、特にブルズを出てオーランド・マジックに移ったホーレス・グラントにプレイオフの大事な場面で活躍されたことはブルズの首脳陣にインサイドで頼りになる選手がいかに大切かを知らしめた。タイトルを奪還するために補強する選手の候補として名前が挙がったのが当時サンアントニオ・スパーズでチームメイトとの確執によりチームが放出したがっていたデニス・ロッドマンであった。デニス・ロッドマンは当時すでに4年連続でリバウンド王を獲得し、最優秀ディフェンス賞も2度獲得するなど実力は文句なしだったが、その強すぎる個性と性格のため周囲とのトラブルが絶えず、さらにかつてブルズを苦しめ続けたデトロイト・ピストンズの一員だった。ピッペンはかつてプレイオフでロッドマンに突き飛ばされて顎に裂傷を負い、「毎朝、髭を剃るたびにロッドマンのことを思い出す」と言うくらい嫌っていた。しかし、彼はまた優勝するためにはロッドマンの力が必要だと理解し、ジョーダンと共に過去の恨みを捨ててチームに迎え入れることに同意する。ブルズに移籍したロッドマンはその年もリバウンド王を獲得し、ディフェンスやポストプレーなどでもチームに確実に貢献していた。ピッペンは相変わらずオールラウンドな選手だった。ジョーダン、ロッドマン、ピッペンの3人はリーグでも最高のトリオと見なされ、シカゴ・ブルズはリーグを席捲した。72勝10敗というNBA歴代最高の勝ち数でプレイオフに進んだブルズは昨年敗れたオーランド・マジックを東地区の決勝で4連勝で撃破。ファイナルではシアトル・スーパーソニックスと対戦、4勝2敗で4度目の優勝を飾った。 翌1996-97シーズンもブルズは好調で、69勝13敗でレギュラーシーズンを終える。シーズン中にロッドマンがカメラマンへの暴行で出場停止だった時期もあり、終盤に故障者が出るなど昨年ほどの勝ち星ではなかったが、それでもNBA歴代2位タイの成績だった。プレイオフでは再び相手チームをほとんど寄せ付けない強さをみせ、東地区決勝のマイアミ・ヒート戦ではピッペンが相手のラフプレーに悩まされたり、足首を痛めるシーンもあったが4勝1敗で撃破。NBAファイナルへ進みユタ・ジャズと対戦。第5戦でジョーダンの体調不良で危機的状況へ陥った場面もあったが、ピッペンがしっかりとジョーダンをサポートし、ブルズは逆転勝ち。ジャズを4勝2敗で下し、5度目の優勝を果たす。 チームは歴史的にも最高のレベルへ達していたが、この時期よりピッペンとチームフロントとの確執が公に語られるようになる。 1990年代はNBA選手の年俸が高騰した時期だった。スター級の選手が数百万ドルから数千万ドルの年俸を得るようになると、ピッペンの1991年に結んだ契約は時代遅れに見えてきた。個人成績や受賞歴、チームへの貢献度から言ってもピッペンはリーグでもトップクラスの選手だったが、年俸はリーグの100位以下でありチームの控え選手だったトニー・クーコッチより低かった。 加えて、チームのジェネラルマネージャージェリー・クラウス個人との確執が事態をさらに悪化させた。クラウスは年俸に関しては常に渋く、交渉の場ではしばしば選手を傷つける発言をした。またクラウスは好んでチームの遠征へ同行し、それが選手との関係をさらに複雑にした。ある遠征の時、スコッティは選手たちのいる前で公然とクラウスを罵ったことがあり、それがマスコミに報じられる事態も起きた。スコッティはこのシーズンの最中、公にトレードを要求したこともあった。 翌1997-98シーズンはフィル・ジャクソン監督の引退の可能性が語られ、またピッペンの去就もしばしば話題にされた。ジョーダンは「ジャクソンとピッペンが残れば自分も残る」と語り、強豪ブルズ最後のシーズンになるかどうかがファンやマスコミの関心事だった。このシーズンはブルズ2度目の「スリーピート」つまり6回目の優勝がかかっていた。 結局、開幕前にピッペンのトレードは行われず、優勝メンバーはそのままのチームで6度目の優勝を狙うことになったブルズだったが、昨シーズンのプレイオフ、マイアミ・ヒート戦で痛めていたピッペンの足首は回復せず、迷い続けた末に手術することを決断した。開幕時期の手術によりピッペンは約3ヶ月近く欠場した為、長年自分に対してひどい扱いを続けていたチーム首脳へ当てつけるための行為ではないかという憶測もささやかれた。万能選手だったピッペンを欠いたブルズは開幕直後に大苦戦し、一時はプレイオフの出場さえ危ぶまれ、ピッペンの存在の大きさが改めて証明された。その後、残りのメンバーたちは徐々に連携を取り戻し、献身的なプレーでチームを支えオールスター戦の頃にはついに東地区の首位へ立つ。コートサイドでスーツ姿で試合を観戦し続けていたピッペンは、次第にチームメイトへ笑顔で声援を贈るようになり、周囲とのわだかまりも少しずつ消えていった。そして2月の試合でついに復活したピッペンへ観客から大声援が贈られ、ブルズは完全に勢いを取り戻した。このシーズンのブルズは結局62勝20敗でリーグ1位タイ。プレイオフでブルズはラリー・バードがヘッドコーチをつとめていたインディアナ・ペイサーズに最終戦まで粘られるなど苦しみながらもNBAファイナルへ進出し、再びユタ・ジャズと対戦。昨年と違ってホームコートアドバンテージのないシリーズで、休養十分なジャズに対して連戦続きのブルズは今度こそ勝てないのでは? と不安視されていた。しかし、初戦は敗れたものの、その後の3試合でピッペンが見事なディフェンスをみせ、何度も相手選手からオフェンス・ファウルを誘って攻撃のリズムを崩し、ブルズは3連勝。一気に優勝決定かと思われた第5戦だったがジョーダンとピッペンが共にシュートが不調でブルズは敗れ、再び敵地ソルトレークシティへ舞台を移すことになった。第6戦、試合序盤にダンクシュートを決めたピッペンだったが、そのとき、それまで激しいディフェンスを続け為に痛めた腰痛が再発。激痛でロッカールームへピッペンが下がってしまうとジャズは猛攻を開始。常にリードされ続けるブルズは、ジョーダンがこの試合45得点の活躍で何とか離されずに付いていく。そしてピッペンはロッカールームで腰へ消炎剤を塗り、激痛に耐えながらコートへ戻って必死のプレーを見せる。試合の終盤、残り数秒でジョーダンがロッドマンのマークに気を取られた相手エースのカール・マローンからボールをスティール、そして次のプレーでシュートを決め、ブルズはジャズを1点差の逆転勝ち。敵地で苦しみ続けて最後の優勝を手にしたピッペンは感激に涙を流し続けていた。 シーズン後、ジャクソンとジョーダンは引退、ブルズの最強チームは解体されて再建へ入り、ピッペンはついに本人の希望したトレードにより11年間過ごしたチームを去った。
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