ラージャシンハ1世
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「シーターワカ王国」の記事における「ラージャシンハ1世」の解説
マヤドゥンネ王は1581年に亡くなり、息子ティキリ・バンダラがラージャシンハ1世として即位した。1582年、新しい王は東のキャンディ王国に侵攻して征服し、北のジャフナ王国と南のポルトガル領を除いた、スリランカほぼ全土を制した。キャンディ王カラリヤッデ・バンダラ(Karaliyadde Bandara)はトリンコマリーに逃亡したが、その後、天然痘で亡くなった。王の若い娘、クスマサナ・デヴィ(Kusumasana Devi)はポルトガルの庇護下で洗礼を受けてドナ・カトリーナとなった。ポルトガルは彼女の名の下にキャンディの王位を以後10年にわたって主張した。 さらにキャンディの支配を任された総督ウィラスンダラ・ムディヤンセ(カタルーニャ語版)の反乱も事態を混乱させた。蜂起は鎮圧され、ウィラスンダラは殺害されたが、彼の息子のコナップ・バンダラはポルトガル領に逃亡した。コナップはキリスト教に改宗してドン・フアン・デ・アウストリアとの洗礼名を名乗り、シーターワカ王国との対立を続けた。 ポルトガルは陰謀を巡らせ、1583年から1587年の間に、ラージャシンハ王の宮廷に激変をもたらした。多数の貴族が裏切りを告発されて処刑された。もっとも大きな変化は、敵と通じたとして、仏教僧をラージャシンハ王が敵視するようになったことだった。寺院は破壊され、スリー・パーダもヒンドゥー教の僧侶達に捧げられ、ラージャシンハ自身もヒンドゥー教に改宗した。多数の離反者が高地地帯に逃れた。コーッテ王国ではダルマパラ王の1580年の寄進が1583年11月4日に正式に宣言された。 ラージャシンハはヨーロッパ人への対抗の努力を倍増させ、1587年におよそ5万の歩兵に加えて戦象と騎兵、それに現地で生産した多数の大砲からなる軍を編成した。この軍で、コロンボを22ヶ月にわたって攻囲した。しかし、シーターワカは海軍力を欠いており、ゴアから船で運ばれるポルトガルの補給を遮断できなかった。カリカットの政策転換もあり、かつての南インドでの反ポルトガル同盟を復活させる望みも絶たれた。ラージャシンハは内陸部の政情不安に対応するため、1588年2月にコロンボ攻囲を断念した。 ラージャシンハの治世の晩年は、防衛戦に費やされた。1591年にポルトガルが北のジャフナ王国に侵入したことで、これはさらに困難になった。翌年、ポルトガル軍がキャンディを一時的に占領したが、これは撃退された。しかし、その後間もなくコナップ・バンダラがキャンディに帰還して新たな脅威となった。コナップは仏教に改宗し、ドナ・カトリーナと結婚することでその地位を正統なものとしてヴィマラダルマスリヤ(英語版)の名の下にキャンディ王となった。1593年、バラン(Balane)とマウェラ(英語版)でラージャシンハは敗北し、キャンディ王国の独立は確実な物となった。翌年、ラージャシンハは亡くなった。
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