ラージャシンハ1世とは? わかりやすく解説

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ラージャシンハ1世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 20:19 UTC 版)

シーターワカ王国」の記事における「ラージャシンハ1世」の解説

マヤドゥンネ王は1581年亡くなり息子ティキリ・バンダラがラージャシンハ1世として即位した1582年新しい王は東のキャンディ王国侵攻し征服し、北のジャフナ王国と南のポルトガル領除いたスリランカほぼ全土制したキャンディ王カラリヤッデ・バンダラ(Karaliyadde Bandara)はトリンコマリー逃亡したが、その後天然痘亡くなった。王の若い娘、クスマサナ・デヴィ(Kusumasana Devi)はポルトガル庇護下で洗礼受けてドナ・カトリーナとなったポルトガルは彼女の名の下にキャンディ王位以後10年わたって主張した。 さらにキャンディ支配任され総督ウィラスンダラ・ムディヤンセ(カタルーニャ語版)の反乱事態混乱させた。蜂起鎮圧され、ウィラスンダラは殺害されたが、彼の息子のコナップ・バンダラはポルトガル領逃亡した。コナップはキリスト教改宗しドン・フアン・デ・アウストリアとの洗礼名名乗りシーターワカ王国との対立続けたポルトガル陰謀巡らせ1583年から1587年の間に、ラージャシンハ王の宮廷激変もたらした多数貴族裏切り告発され処刑された。もっとも大きな変化は、敵と通じたとして、仏教僧をラージャシンハ王が敵視するようになったことだった。寺院破壊されスリー・パーダヒンドゥー教僧侶達に捧げられ、ラージャシンハ自身ヒンドゥー教改宗した多数離反者高地地帯逃れたコーッテ王国ではダルマパラ王の1580年寄進1583年11月4日正式に宣言された。 ラージャシンハはヨーロッパ人への対抗努力倍増させ、1587年におよそ5万歩兵加えて戦象騎兵、それに現地生産した多数大砲からなる軍を編成した。この軍で、コロンボ22ヶ月わたって攻囲した。しかし、シーターワカは海軍力欠いており、ゴアから船で運ばれるポルトガル補給遮断できなかった。カリカット政策転換あり、かつての南インドでの反ポルトガル同盟復活させる望み絶たれた。ラージャシンハは内陸部政情不安に対応するため、1588年2月コロンボ攻囲断念した。 ラージャシンハの治世晩年は、防衛戦費やされた。1591年ポルトガルが北のジャフナ王国侵入したことで、これはさらに困難になった。翌年ポルトガル軍キャンディ一時的に占領したが、これは撃退された。しかし、その後間もなくコナップ・バンダラがキャンディ帰還し新たな脅威となった。コナップは仏教改宗し、ドナ・カトリーナと結婚することでその地位正統なものとしてヴィマラダルマスリヤ(英語版)の名の下にキャンディとなった1593年バラン(Balane)とマウェラ(英語版)でラージャシンハは敗北しキャンディ王国独立確実なとなった翌年、ラージャシンハは亡くなった

※この「ラージャシンハ1世」の解説は、「シーターワカ王国」の解説の一部です。
「ラージャシンハ1世」を含む「シーターワカ王国」の記事については、「シーターワカ王国」の概要を参照ください。

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