前期バンド時代の主なメンバーとは? わかりやすく解説

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前期バンド時代の主なメンバー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 07:50 UTC 版)

ザ・ドリフターズ」の記事における「前期バンド時代の主なメンバー」の解説

元々バンドであってコント寄りではなかったため、前期バンド時代には大御所ミュージシャン在籍していた。 岸部清1931年1月3日 - 2019年2月11日)(88歳没) ドリフ加入1956年秋(サンズ・オブ・ドリフターズ結成時ドリフ脱退1959年担当楽器ギター 初代リーダー。元・東京ウェスタンボーイスの出身1959年の春頃に脱退1956年秋マウンテンボーイズとの合併により、サンズ・オブ・ドリフターズリーダーとなる。1959年桜井輝夫リーダーの座を譲り脱退して渡辺プロマネージャーとなる。その後芸能事務所第一プロダクション社長歴任したが、第一プロ2017年9月業績悪化自身高齢化もあり解散音楽出版社協会MPA副会長音事協名誉理事兼任2019年2月11日肺ガンにより死去大野義夫1931年9月9日 - 2020年6月9日)(88歳没) ドリフ加入1956年秋(サンズ・オブ・ドリフターズ結成時ドリフ脱退1957年2月 担当楽器バンジョー 東京都杉並区生まれ法政大学出身在学中「ウエスタン・ジョリーボーイズ」結成六大学音楽リーグ戦米軍キャンプ等で活躍。「カントリーレンジャーズ」「マウンテン・ボーイズ(1952年)」「サンズ・オブ・ドリフターズ1956年)」を結成1957年3月堀威夫スイング・ウエスト創立メンバーに加わる。その後ラジオ番組ゲスト出演ライブコンサートディナーショーなどで活躍。「大野義夫&カントリーメイツ」を率いてライブ・コンサート・ディナーショーなどを行っていた。なぎら健壱寺本圭一との親交深く元メンバーではジャイアント吉田、現ドリフメンバーの中では高木ブー親交があった。結成当時メンバーの中で最期まで現役音楽活動続けた唯一の人物であった晩年メディア出演することは殆ど無く稀にラジオ番組などにゲスト出演する程度であった2020年死去山下敬二郎1939年2月22日 - 2011年1月5日)(71歳没) ドリフ加入1957年2月サンズ・オブ・ドリフターズドリフ脱退1957年11月 担当楽器ボーカル ドリフ脱退後人気爆発し一世を風靡したロカビリー歌手一人平尾昌晃ミッキー・カーチス並んでロカビリー三人衆」と呼ばれていた。実父落語家喜劇俳優柳家金語楼本人コメディ分野には進んでいないが、『ドリフ大爆笑』に1977年ブームロカビリーブームコント出演している。2011年1月5日胆管ガンによる腎不全のため死去井上ひろし1941年8月23日 - 1985年9月19日)(44歳没) ボーヤ加入1957年サンズ・オブ・ドリフターズドリフ加入1957年11月井上ひろしドリフターズドリフ脱退1959年担当楽器ボーカル 1957年11月山下脱退後サンズ・オブ・ドリフターズボーヤから昇格バンド名に自身の名前が付けられていたが、同じくバンド名に氏名含まれていた桜井輝夫いかりや長介とは異なりリーダーだったわけではない。そのため、リーダー以外でバンド名に氏名含まれていた唯一のメンバーでもある。長身と甘いマスク女性ファン魅了した水原弘(のちに守屋浩交代)、守屋浩釜萢ヒロシ並んで三人ひろし」と呼ばれるロカビリー歌手映画青春賭けろ」にも出演代表曲は「に咲く花」。ドリフ脱退後暫く売れていたものの、その後鳴かず飛ばず料理人になる為の修行始めるが、急性心筋梗塞のため死去桜井輝夫1931年4月30日 - )(90歳) ドリフ加入1958年春(井上ひろしドリフターズドリフ脱退1965年夏(メンバーとしての脱退1964年秋) 担当楽器:セカンドボーカル及びギター 2代目リーダー1958年井上ひろしドリフターズ加入1959年の末、岸部リーダーの頃、小野以外全員メンバー脱退した後、新加入のポン青木高橋一誘って4人で解散寸前ドリフターズ再結成させる。ドリフロカビリーからコミックバンド転向させる際、桜井コミック精通していなかったため、ジミー時田とマウンテンプレイボーイズより碇矢長一ヘッドハンティング一般的に知られている5人のメンバーになったドリフメンバーの中では、いかりやと加藤のみが桜井リーダー時のメンバーとして在籍荒井高木仲本の3人も居るには居たが、3人は桜井オーナー立場になってからの加入)。1964年の秋、リーダーの座を正式にいかりやに譲り1965年ドリフ管理渡辺プロダクション譲渡し脱退フジテレビ系バラエティ番組ウチくる!?』の2001年10月7日放送分において、加藤茶ゲスト出演した際に、加藤芸能界恩師として登場したことがある初期メンバー多く死没もしくは消息不明であり、桜井例外ではないが、ある程度芸歴確認出来初期メンバーの中では岸辺リーダーだった時代を知る唯一の存命者である。 坂本九1941年12月10日 - 1985年8月12日)(43歳没) ボーヤ加入1958年5月井上ひろしドリフターズドリフ加入1958年8月井上ひろしドリフターズドリフ脱退1958年12月 担当楽器:セカンドボーカル及びギター 雑誌ミュージックライフ1958年10月によれば1958年5月井上ひろしドリフターズボーヤとして加入し8月メンバー昇格同年8月第3回日劇ウエスタンカーニバルメンバーとして出演したが、ドリフターズではメインボーカルになることが出来ないという理由により12月ダニー飯田とパラダイス・キング移籍の形で脱退。「8時だョ!全員集合」の第1回放送ゲスト出演している。1985年日本航空123便墜落事故遭い死去小野ヤスシ1940年2月11日 - 2012年6月28日)(72歳没) ボーヤ加入1959年夏(井上ひろしドリフターズドリフ加入1960年桜井輝夫ドリフターズドリフ脱退1964年担当楽器コンガ及びセカンドボーカル 1959年井上ひろしドリフターズ最末期ボーヤとして加入し1960年桜井輝夫ドリフターズ結成時メンバー昇格ボーヤ加入直後メンバー小山仁義の家に居候していたという。1964年の夏に、いかりやのワンマン体制対立して反発。それを機にドリフ脱退した後述するクーデターにより、ドリフ現在のメンバー構成となるきっかけ作った人物である。小野脱退以後メンバー構成世間では「ドリフターズ」と認知されている為、小野ドリフ元メンバーであった事を知っている人は数少ない脱退後後述する他のドリフ脱退メンバーと共にドンキーカルテット結成した1970年6年間に渡って活躍したドンキー解散する。これ以降ソロ活動する様になり、テレビ司会バラエティー番組などで活躍ドリフ脱退後加藤との交友関係続き1993年には加藤仲本と共に加トちゃんBAND」を結成している。2012年腎盂ガンのため、都内病院死去したポン青木 ドリフ加入1960年桜井輝夫ドリフターズドリフ脱退1963年 担当楽器ビブラフォン 1960年桜井ドリフターズ結成時加入。いかりやがドリフ加入して暫くの後、宮本二郎とスクラップサウンズに移籍の形で脱退。いかりやの著書によればコミック前向きだったと述べている。脱退原因不明脱退後1970年代には真木ひでとマネージャー務めていたが、白血病により他界した高橋一 ドリフ加入1960年桜井輝夫ドリフターズドリフ脱退1961年 担当楽器不明 1960年桜井輝夫ドリフターズ結成直後加入解散寸前だったドリフ復活尽力したが、担当をしていた楽器等の詳細について資料現存していない為、本人現在の動向含めて不明である。 田中良ドリフ加入1961年桜井輝夫ドリフターズドリフ脱退1963年 担当楽器テナー・サックス 1962年加藤ドリフターズ加入するよう誘いメンバー加入させている。桜井がいかりやに形式的にリーダー譲りコミック比重強まった頃に完全なコミックバンド化に反発してドリフ退いた本人現在の動向不明である。 三好ドリフ加入1961年桜井輝夫ドリフターズドリフ脱退1963年 担当楽器ピアノ 桜井がいかりやに形式的にリーダー譲りコミック比重強まった頃に完全なコミックバンド化に反発しその後ドリフ脱退した。現在、本人動向不明である。 高松秀晴(1942年3月16日 - )(79歳) 専属シンガー加入1961年桜井輝夫ドリフターズ専属シンガー脱退1963年 担当楽器ボーカル 正式なメンバーではなく専属シンガー1960年5月第一プロダクションドリフターズ初代リーダーとされる岸部清創業し当時社長務めていた芸能事務所主催新人ロック歌手コンテスト入賞して芸能界入り桜井輝夫ドリフターズボーカルがいなかった事から抜擢され1961年1963年頃、木の実ナナと共にドリフターズ専属シンガーだった。高校生でウェスタンカーニバルの出場資格得た程の実力者だった(ただし、当時在籍していた高校から出場許可得られなかったため、実際に出場していない)。現在の動向不明である。 木の実ナナ1946年7月11日 - 、本名池田鞠子)(75歳専属シンガー加入1962年桜井輝夫ドリフターズ専属シンガー脱退1963年 担当楽器ボーカル 正式なメンバーではなく専属シンガー。しかし、高木証言によれば元メンバー本人証言、いかりやの著書加藤証言では、前歌歌っていたという。1962年1963年初頭頃、専属シンガーだった。彼女はいかりや、加藤らのバックミュージックの下で歌っており、いかりやからは「ナナすけ」と呼ばれていた。 ジャイアント吉田1936年1月25日 - )(85歳ドリフ加入1962年桜井輝夫ドリフターズドリフ脱退1964年 担当楽器ギター 元々いかりやが在籍していた「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」のメンバーであったが、いかりやに誘われて1962年ドリフ入りし、それ以来親友旧知の仲であった。しかしそのいかりやのワンマン体制ぶりに愛想を尽かし1964年小野ヤスシと共にクーデター起こして脱退その後ドンキーカルテット結成しそれに小野合流する。現在は芸能界の他、催眠術師として執筆活動催眠法クリニックなどで活躍している。大野義夫親交があり、2017年2月22日高木ブー大野義夫らが出演するライブMCを行う。 飯塚文雄1940年11月23日 - 2003年3月27日)(62歳没) ドリフ加入1963年桜井輝夫ドリフターズドリフ脱退1964年 担当楽器フィドルバイオリン小野ヤスシと共にクーデター起こして脱退ドンキーカルテット結成し合流するものの、こちらも参加後早期離脱した。後に深夜人気番組となった日本テレビの『11PM』の水曜日レポーターとして活躍して有名となる。飯塚は元々カントリー&ウェスタン精通しており、自身ドリフドンキー音楽コントには向いていないと実感しており、存在感を出す事に苦労したところもあったという。2003年死去した猪熊虎五郎1932年- 2001年11月4日)(69歳没) ドリフ加入1963年桜井輝夫ドリフターズドリフ脱退1964年 担当楽器キーボード 大柄な体格黒縁眼鏡特徴であり、奇抜な声が印象的でもあった。ザ・ドリフターズには1年間在籍したのみで小野吉田らと離脱しドンキーカルテット移籍1970年ドンキー解散後声優でも活躍して芸能活動続けたが、後に病気療養をしていた為、芸能界から引退するになった2001年死去

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