前期バンド時代の主なメンバー
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「ザ・ドリフターズ」の記事における「前期バンド時代の主なメンバー」の解説
元々バンドであって、コント寄りではなかったため、前期バンド時代には大御所ミュージシャンが在籍していた。 岸部清(1931年1月3日 - 2019年2月11日)(88歳没) ドリフ加入:1956年秋(サンズ・オブ・ドリフターズ結成時) ドリフ脱退:1959年春 担当楽器:ギター 初代リーダー。元・東京ウェスタンボーイスの出身。1959年の春頃に脱退。1956年秋マウンテンボーイズとの合併により、サンズ・オブ・ドリフターズのリーダーとなる。1959年桜井輝夫にリーダーの座を譲り、脱退して渡辺プロのマネージャーとなる。その後芸能事務所「第一プロダクション」社長を歴任したが、第一プロは2017年9月に業績の悪化と自身の高齢化もあり解散。音楽出版社協会(MPA)副会長、音事協の名誉理事を兼任。2019年2月11日、肺ガンにより死去。 大野義夫(1931年9月9日 - 2020年6月9日)(88歳没) ドリフ加入:1956年秋(サンズ・オブ・ドリフターズ結成時) ドリフ脱退:1957年2月 担当楽器:バンジョー 東京都杉並区生まれ。法政大学出身。在学中「ウエスタン・ジョリーボーイズ」結成。六大学音楽リーグ戦、米軍キャンプ等で活躍。「カントリーレンジャーズ」「マウンテン・ボーイズ(1952年)」「サンズ・オブ・ドリフターズ(1956年)」を結成。1957年3月「堀威夫とスイング・ウエスト」創立メンバーに加わる。その後、ラジオ番組のゲスト出演や ライブ、コンサート、ディナーショーなどで活躍。「大野義夫&カントリーメイツ」を率いてライブ・コンサート・ディナーショーなどを行っていた。なぎら健壱や寺本圭一との親交が深く、元メンバーではジャイアント吉田、現ドリフメンバーの中では高木ブーと親交があった。結成当時のメンバーの中で最期まで現役で音楽活動を続けた唯一の人物であった。晩年はメディアに出演することは殆ど無く、稀にラジオ番組などにゲスト出演する程度であった。2020年、死去。 山下敬二郎(1939年2月22日 - 2011年1月5日)(71歳没) ドリフ加入:1957年2月(サンズ・オブ・ドリフターズ) ドリフ脱退:1957年11月 担当楽器:ボーカル ドリフ脱退後に人気が爆発し、一世を風靡したロカビリー歌手の一人。平尾昌晃、ミッキー・カーチスと並んで「ロカビリー三人衆」と呼ばれていた。実父は落語家で喜劇俳優の柳家金語楼。本人はコメディの分野には進んでいないが、『ドリフ大爆笑』に1977年ブームでロカビリーブームのコントに出演している。2011年1月5日、胆管ガンによる腎不全のため死去。 井上ひろし(1941年8月23日 - 1985年9月19日)(44歳没) ボーヤ加入:1957年(サンズ・オブ・ドリフターズ) ドリフ加入:1957年11月(井上ひろしとドリフターズ) ドリフ脱退:1959年秋 担当楽器:ボーカル 1957年11月に山下の脱退後、サンズ・オブ・ドリフターズのボーヤから昇格。バンド名に自身の名前が付けられていたが、同じくバンド名に氏名が含まれていた桜井輝夫やいかりや長介とは異なり、リーダーだったわけではない。そのため、リーダー以外でバンド名に氏名が含まれていた唯一のメンバーでもある。長身と甘いマスクで女性ファンを魅了した。水原弘(のちに守屋浩と交代)、守屋浩、釜萢ヒロシと並んで「三人ひろし」と呼ばれるロカビリー歌手。映画「青春を賭けろ」にも出演。代表曲は「雨に咲く花」。ドリフ脱退後も暫くは売れていたものの、その後は鳴かず飛ばずで料理人になる為の修行を始めるが、急性心筋梗塞のため死去。 桜井輝夫(1931年4月30日 - )(90歳) ドリフ加入:1958年春(井上ひろしとドリフターズ) ドリフ脱退:1965年夏(メンバーとしての脱退は1964年秋) 担当楽器:セカンドボーカル及びギター 2代目リーダー。1958年井上ひろしとドリフターズへ加入。1959年の末、岸部がリーダーの頃、小野以外全員のメンバーが脱退した後、新加入のポン青木、高橋一を誘って4人で解散寸前のドリフターズを再結成させる。ドリフをロカビリーからコミックバンドに転向させる際、桜井はコミックに精通していなかったため、ジミー時田とマウンテンプレイボーイズより碇矢長一をヘッドハンティング。一般的に知られている5人のメンバーになったドリフメンバーの中では、いかりやと加藤のみが桜井リーダー時のメンバーとして在籍(荒井・高木・仲本の3人も居るには居たが、3人は桜井がオーナーの立場になってからの加入)。1964年の秋、リーダーの座を正式にいかりやに譲り、1965年にドリフの管理を渡辺プロダクションへ譲渡して脱退。フジテレビ系バラエティ番組『ウチくる!?』の2001年10月7日放送分において、加藤茶がゲスト出演した際に、加藤の芸能界の恩師として登場したことがある。初期メンバーの多くは死没もしくは消息不明であり、桜井も例外ではないが、ある程度の芸歴が確認出来る初期メンバーの中では岸辺がリーダーだった時代を知る唯一の存命者である。 坂本九(1941年12月10日 - 1985年8月12日)(43歳没) ボーヤ加入:1958年5月(井上ひろしとドリフターズ) ドリフ加入:1958年8月(井上ひろしとドリフターズ) ドリフ脱退:1958年12月 担当楽器:セカンドボーカル及びギター 雑誌「ミュージックライフ」1958年10月号によれば、1958年5月に井上ひろしとドリフターズのボーヤとして加入し8月にメンバー昇格。同年8月、第3回日劇ウエスタンカーニバルにメンバーとして出演したが、ドリフターズではメインボーカルになることが出来ないという理由により12月にダニー飯田とパラダイス・キングに移籍の形で脱退。「8時だョ!全員集合」の第1回放送にゲスト出演している。1985年に日本航空123便墜落事故に遭い死去。 小野ヤスシ(1940年2月11日 - 2012年6月28日)(72歳没) ボーヤ加入:1959年夏(井上ひろしとドリフターズ) ドリフ加入:1960年(桜井輝夫とドリフターズ) ドリフ脱退:1964年夏 担当楽器:コンガ及びセカンドボーカル 1959年井上ひろしとドリフターズの最末期にボーヤとして加入し、1960年の桜井輝夫とドリフターズ結成時にメンバー昇格。ボーヤ加入直後はメンバーの小山仁義の家に居候していたという。1964年の夏に、いかりやのワンマン体制に対立して反発。それを機にドリフを脱退した。後述するクーデターにより、ドリフが現在のメンバー構成となるきっかけを作った人物である。小野脱退以後のメンバー構成が世間では「ドリフターズ」と認知されている為、小野がドリフの元メンバーであった事を知っている人は数少ない。脱退後、後述する他のドリフ脱退メンバーと共にドンキーカルテットを結成した。1970年、6年間に渡って活躍したドンキーは解散する。これ以降はソロ活動する様になり、テレビの司会やバラエティー番組などで活躍。ドリフ脱退後も加藤との交友関係は続き、1993年には加藤、仲本と共に「加トちゃんBAND」を結成している。2012年腎盂ガンのため、都内の病院で死去した。 ポン青木 ドリフ加入:1960年(桜井輝夫とドリフターズ) ドリフ脱退:1963年 担当楽器:ビブラフォン 1960年に桜井とドリフターズ結成時に加入。いかりやがドリフに加入して暫くの後、宮本二郎とスクラップサウンズに移籍の形で脱退。いかりやの著書によれば、コミックに前向きだったと述べている。脱退原因は不明。脱退後の1970年代には真木ひでとのマネージャーを務めていたが、白血病により他界した。 高橋一 ドリフ加入:1960年(桜井輝夫とドリフターズ) ドリフ脱退:1961年 担当楽器:不明 1960年に桜井輝夫とドリフターズ結成直後に加入。解散寸前だったドリフの復活に尽力したが、担当をしていた楽器等の詳細については資料が現存していない為、本人の現在の動向も含めて不明である。 田中良夫 ドリフ加入:1961年(桜井輝夫とドリフターズ) ドリフ脱退:1963年 担当楽器:テナー・サックス 1962年に加藤をドリフターズに加入するよう誘い、メンバーに加入させている。桜井がいかりやに形式的にリーダーを譲り、コミックの比重が強まった頃に完全なコミックバンド化に反発してドリフを退いた。本人の現在の動向は不明である。 三好明 ドリフ加入:1961年(桜井輝夫とドリフターズ) ドリフ脱退:1963年 担当楽器:ピアノ 桜井がいかりやに形式的にリーダーを譲り、コミックの比重が強まった頃に完全なコミックバンド化に反発し、その後ドリフを脱退した。現在、本人の動向は不明である。 高松秀晴(1942年3月16日 - )(79歳) 専属シンガー加入:1961年(桜井輝夫とドリフターズ) 専属シンガー脱退:1963年 担当楽器:ボーカル 正式なメンバーではなく専属シンガー。1960年5月、第一プロダクション(ドリフターズの初代リーダーとされる岸部清が創業し、当時社長を務めていた芸能事務所)主催の新人ロック歌手コンテストに入賞して芸能界入り。桜井輝夫とドリフターズにボーカルがいなかった事から抜擢され1961年〜1963年頃、木の実ナナと共にドリフターズの専属シンガーだった。高校生でウェスタンカーニバルの出場資格を得た程の実力者だった(ただし、当時在籍していた高校から出場許可が得られなかったため、実際には出場していない)。現在の動向は不明である。 木の実ナナ(1946年7月11日 - 、本名池田鞠子)(75歳) 専属シンガー加入:1962年(桜井輝夫とドリフターズ) 専属シンガー脱退:1963年 担当楽器:ボーカル 正式なメンバーではなく専属シンガー。しかし、高木の証言によれば元メンバー。本人の証言、いかりやの著書、加藤の証言では、前歌を歌っていたという。1962年〜1963年の初頭頃、専属シンガーだった。彼女はいかりや、加藤らのバックミュージックの下で歌っており、いかりやからは「ナナすけ」と呼ばれていた。 ジャイアント吉田(1936年1月25日 - )(85歳) ドリフ加入:1962年(桜井輝夫とドリフターズ) ドリフ脱退:1964年 担当楽器:ギター 元々いかりやが在籍していた「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」のメンバーであったが、いかりやに誘われて1962年にドリフ入りし、それ以来親友で旧知の仲であった。しかしそのいかりやのワンマン体制ぶりに愛想を尽かし、1964年に小野ヤスシと共にクーデターを起こして脱退、その後ドンキーカルテットを結成しそれに小野と合流する。現在は芸能界の他、催眠術師として執筆活動や催眠法のクリニックなどで活躍している。大野義夫と親交があり、2017年2月22日に高木ブーや大野義夫らが出演するライブのMCを行う。 飯塚文雄(1940年11月23日 - 2003年3月27日)(62歳没) ドリフ加入:1963年(桜井輝夫とドリフターズ) ドリフ脱退:1964年 担当楽器:フィドル(バイオリン) 小野ヤスシと共にクーデターを起こして脱退。ドンキーカルテットを結成し合流するものの、こちらも参加後に早期離脱した。後に深夜の人気番組となった日本テレビの『11PM』の水曜日のレポーターとして活躍して有名となる。飯塚は元々カントリー&ウェスタンに精通しており、自身でドリフやドンキーの音楽コントには向いていないと実感しており、存在感を出す事に苦労したところもあったという。2003年に死去した。 猪熊虎五郎(1932年- 2001年11月4日)(69歳没) ドリフ加入:1963年(桜井輝夫とドリフターズ) ドリフ脱退:1964年 担当楽器:キーボード 大柄な体格で黒縁眼鏡が特徴であり、奇抜な声が印象的でもあった。ザ・ドリフターズには1年間在籍したのみで小野、吉田らと離脱しドンキーカルテットに移籍。1970年にドンキー解散後は声優でも活躍して芸能活動を続けたが、後に病気療養をしていた為、芸能界から引退する事になった。2001年に死去。
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