前期チャールキヤ朝との抗争とパッラヴァ朝の繁栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/03 14:59 UTC 版)
「パッラヴァ朝」の記事における「前期チャールキヤ朝との抗争とパッラヴァ朝の繁栄」の解説
ところで北隣には、当時バーダーミ(英語版)に王都を置く前期チャールキヤ朝が台頭しつつあった。マヘーンドラヴァルマン1世(英語版)(在位:600年 - 630年)の代、前期チャールキヤ朝と戦ったが、北インドの覇者ハルシャを破って勢いに乗るプラケーシン2世(英語版)は、パッラヴァを打ち破ってその北方の地を併合した。復讐戦に燃えるマーヘンドラヴァルマン1世の子、ナーラシンハヴァルマン1世(英語版)(在位:630年 - 668年)は、バーダーミを占領して破壊し、プラケーシン2世を敗死させるなど前期チャールキヤ朝を一時は滅亡の危機にまで追い込んだ。またセイロンの王位継承戦争にも介入している。ナーラシンハヴァルマン1世の治世に玄奘は都のカーンチープラムに訪れている。しかし、プラケーシン2世の子であるヴィクラマーディティヤ1世(英語版)にパッラヴァ朝の勢力は追い払らわれ、前期チャールキヤ朝は復興した。 パラメーシュヴァラヴァルマン1世(在位:670年 - 680年)の代、前期チャールキヤ朝によって攻め込まれ、カーンチープラムが陥落することもあったが、決定的な打撃とはならず、ナーラシンハヴァルマン2世(英語版)の代に再び繁栄を取り戻した。 カーンチープラムにはカイラーサナータ寺院(英語版)、マハーバリプラムには「海岸寺院(英語版)」が建てられた。経済は海外貿易によって発展し、唐への使節も派遣されている。 ところが次のパラメーシュヴァラヴァルマン2世(英語版)の代に前期チャールキヤ朝の攻撃を受けるようになり、パラメーシュヴァラヴァルマン2世は戦死した。後継者問題が起こったが大臣たちとバラモン教学院(ガティカー)の高僧たちによって、シンハヴィシュヌの弟の系譜を引くヒラニヤヴァルマンの子、ナンディヴァルマン2世(英語版)バラヴァマッラ(在位:731年 - 795年)が擁立された。その治世の初期は、前期チャールキヤ朝のヴィクラマーディティヤ2世(英語版)に攻め込まれ、3度にわたって都カーンチープラムが陥落させられた。しかし、前期チャールキヤ朝に代わったラーシュトラクータ朝とは友好関係を維持して勢力を伸張した。
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