パラメーシュヴァラヴァルマン1世とは? わかりやすく解説

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パラメーシュヴァラヴァルマン1世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/19 23:55 UTC 版)

 パラメーシュヴァラヴァルマン1世
परमेश्वरवर्मन् १
チャンパ王
在位 972年? - 982年

死去 982年
王朝 第7王朝
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パラメーシュヴァラヴァルマン1世サンスクリット語: परमेश्वरवर्मन् १, ラテン文字転写: Parameśvaravarman I, 生年不詳 - 982年)は、チャンパ王国占城国)第7王朝の第4代国王(在位:972年? - 982年)。『宋史』では波美税褐印茶ベトナム語: Ba Mỹ Thuế Hạt Ấn Trà)および波美税陽布印茶ベトナム語: Ba Mỹ Thuế Dương Bố Ấn Trà)、『宋会要輯稿』では波利税羯茶ベトナム語: Ba Lợi Thuế Hạt Trà)、『大越史記全書』では篦眉税ベトナム語: Bê Mi Thuế)と記される。

生涯

972年4月27日にアブー・ハサンをに遣使し、翌973年7月13日974年2月5日にも朝貢した。976年に朱陀利・陳陀野らを、977年3月8日には正使に李牌、副使として李麻那、判官に李屠を遣使して越諾布・龍脳・雜香薬・丁香・煎香を献じた。978年6月19日には子の達智と共に朝貢し、翌979年12月23日にも李木吒哆を使者として宋に朝貢している。

丁朝大瞿越中国語版丁部領と反目して安南からチャンパに逃れてきた呉日慶を受け入れた。979年10月に丁部領が暗殺されると、これを好機ととらえたパラメーシュヴァラヴァルマン1世は呉日慶に大瞿越攻めの兵を与え、その都の華閭を攻めさせた[1]。しかしチャンパの船団は途中の小康で暴風雨に遭って壊滅し[1]、呉日慶も命を落としたためにわずかに残った船を撤退させざるをえなかった[2]

これが原因で大瞿越との関係が悪化した。前黎朝大瞿越から徐穆と呉子庚が使者として派遣されてきたが、これを捕らえたため[1][2]に、982年黎桓率いる大瞿越軍の侵攻を招いた[1][3][4][5]チャンパ=大瞿越戦争 (982年)中国語版)。パラメーシュヴァラヴァルマン1世は戦死し、王都インドラプラ英語版は大瞿越軍に略奪されて破壊された[1][3]

出典

  1. ^ a b c d e Cœdès, p. 124
  2. ^ a b 桃木, p. 467
  3. ^ a b 桜井由躬雄「紅河の世界」『東南アジア史 I 大陸部』、50頁。 
  4. ^ 桜井由躬雄「南シナ海の世界」『東南アジア史 I 大陸部』、68-69頁。 
  5. ^ レイ・タン・コイ, p. 28

参考資料

先代
ジャヤ・インドラヴァルマン1世
チャンパ王
第7王朝第4代:
972年? - 982年
次代
インドラヴァルマン4世



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