パラメーシュヴァラヴァルマン1世 (パッラヴァ朝)とは? わかりやすく解説

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パラメーシュヴァラヴァルマン1世 (パッラヴァ朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 01:51 UTC 版)

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パラメーシュヴァラヴァルマン1世
முதலாம் பரமேஸ்வரவர்மன்
パッラヴァ朝国王
在位 670年 - 695年
別号 パラマ・イーシュヴァラ
イーシュヴァラポータ

出生 不詳
死去 695年
子女 ナーラシンハヴァルマン2世
王朝 パッラヴァ朝
父親 マヘーンドラヴァルマン2世
宗教 ヒンドゥー教
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パラメーシュヴァラヴァルマン1世タミル語: முதலாம் பரமேஸ்வரவர்மன், ラテン文字転写: Parameśvaravarman I, 生年不詳 - 695年)は、パッラヴァ朝の後期第5代国王(在位:670年 - 695年)。軍事面で功績を挙げた優れた支配者であるとともに、カーンチープラム・クーラム・ヴィチャ・ヴィニータ・パッラヴァ・パラメーシュヴァラム寺院タミル語版をはじめとする多くの寺院を建立し、シヴァ神に対して詩的とも言える献身的な愛を示した。

生涯

先代マヘーンドラヴァルマン2世英語版の子。父の死後、即位した。

673年チャールキヤ朝ヴィクラマーディティヤ1世英語版率いる連合軍が王都カーンチー付近に侵攻してきた[1]。翌674年にパラメーシュヴァラヴァルマン1世はティルチラーパッリ近郊のペルーヴァラ・ナルール英語版でチャールキヤ連合軍と会戦し、勝利を収めた[2]

戦後はカーンチー周辺に寺院を建立し、村を寄進している[2]。勢いに乗ったパラメーシュヴァラヴァルマン1世はデカンに侵攻し、一帯を支配下に収めた。

パラメーシュヴァラヴァルマン1世の死後、子のナーラシンハヴァルマン2世英語版が王位を継承した。

出典

  1. ^ 高田修 「パッラヴァ」、池内宏; 矢野仁一; 橋本増吉編 『東洋歴史大辞典』 中巻(縮刷復刻版) 臨川書店、1986年10月1日、217頁。ISBN 978-4653014690 
  2. ^ a b 正信公章「ダンディン年代考」『アジア学科年報』第9号、追手門学院大学国際教養学部アジア学科、2015年12月、 1-15頁、 ISSN 1882-305XNAID 110010039132
先代:
マヘーンドラヴァルマン2世
パッラヴァ朝国王
670年 - 695年
次代:
ナーラシンハヴァルマン2世



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