周辺諸国の情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 00:43 UTC 版)
神聖ローマ帝国に隣接する諸国のうち、スペインは帝国の西部国境にスペイン領ネーデルラントを領しており、イタリア内の諸邦からネーデルラントに至るスペイン回廊を通じてつながっていることから、ドイツ諸邦に関心を持っていた。1560年代にはネーデルラント人による反乱が頻発しており、反乱の過程で親スペインの南部10州(後のベルギー・ルクセンブルク)と反スペインの北部7州(後のオランダ)に分割、これが1609年の和平協定まで続く八十年戦争となる。 また、16世紀中ばから17世紀中ばまでフランスは、南はルーション、東南ではジェノバとミラノ、東ではフランシュ・コンテとネーデルラントと、スペインと神聖ローマ帝国の2つのハプスブルク家に囲まれており、これはハプスブルク家による意図的な包囲政策の結果であった。フランスはこの打破をめざしていた。フランス王家の関心は宗教のそれを上回り、結果としてカトリックのフランスがプロテスタント側で参戦することになる。アンリ4世は1609年に包囲打破に取り組み、その後宰相(首席大臣)リシュリューが、そして枢機卿マザランが受け継いだ。 オランダ(ネーデルラント17州)にとって三十年戦争は八十年戦争(1568-1648)の一部を成す。オランダは海運、貿易、植民すべてにわたってスペインを凌駕し、オランダは反ハプスブルクの中心となった。1625年のデンマークとのハーグ条約は、デンマークの支柱となり、またフランスをオランダは外交と援助金によって支援し、スウェーデン軍の勝利をもたらした。 スウェーデンとデンマークはバルト海の制海権を巡って対立しており、デンマークの東部バルト海域の基地はスウェーデンに奪われるなどしていた。デンマークが没落するのに対してスウェーデンは勃興し、スウェーデン王グスタフ2世アドルフはバルト海周辺の領域の環をつなぐ計画をもっていたところ、皇帝軍の挑戦によってドイツ問題に参戦せざるを得なくなった。また、「古ゴート主義」も参戦する動機の一つとなった。 神聖ローマ帝国は各々に割拠する独立性の高い諸邦の集まりであったが、帝位を持つハプスブルク家自身は帝国の大きな部分(オーストリア大公領、ボヘミアそしてハンガリー)を直接支配していた。オーストリアは800万人を統治する列強国であった。帝国はまたバイエルン、ザクセン、ブランデンブルク、プファルツ、ヘッセン方伯、トリーア大司教、ヴュルテンベルク(各々の人口は50万人から100万人)といった地域勢力を含んでいた。その他にも公領、自由都市、修道院、司教領主そして小領主(中には領地が1村だけのものもある)といった膨大な数の諸邦があった。オーストリアとバイエルンを除いて、これらの諸邦には国家レベルの政治に関与する能力はなく、子孫への分割相続によって生じた一族関係による同盟が普通である。
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