伊達政宗の時代とは? わかりやすく解説

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伊達政宗の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 04:39 UTC 版)

桜田元親」の記事における「伊達政宗の時代」の解説

桜田家伊達持宗時代伊達家仕え伊達成宗伊達尚宗の代は宿老勤めた伊達尚宗越後守上杉氏より正室迎えた際、桜田隠岐守が交渉役となる(山形大学中条家文書桜田家史)。その後伊達稙宗の代に宿老より外され桜田宗敏、塔寺八幡宮長帳)、稙宗の命で初代御坊丸が桑折陣代のもと跡を継いだ様子桑折氏家系図)。 桜田家史によると、初代御坊丸は小梁川親朝三男の親茂(仙台藩記録上の景親か)であり、稙宗命にて家紋丸に三つ引にしたとある。天文の乱に際して、親茂とその側近が稙宗側、残り家人桜田分家川俣残って伊達晴宗についたため、桜田家分裂。親茂は天文16年戦死その後四郎右兵衛尉吉基が晴宗の命で跡を継ぐも、川俣所領桜田分家のものとなったことを不服として桜田家中で私戦行い出奔桜田本家衰退した。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}(桜田家史上年代ズレがあるが、晴宗公采地下賜大立右衛門宛下長井高玉知行地について、「桜田兵衛召し出し候うへは返し置かれべく候」とあり、状況一致。又時代遡るが、天文十三年に伊達稙宗堀越能登桜田名跡与えるとある。これも桜田親茂戦死状況重なる。桜田家史は年代3、4年程後ろにずれている可能性がある)[独自研究?] 元親は伊達輝宗の代に、再度取り立てられ桜田資親(吉基次男の子として誕生した桜田資親は輪王寺防衛功績により、川俣一部伊達輝宗より安堵され(永禄十一卯月三日伊達輝宗安堵状)、その後政宗時代小手森城攻略、人取駒ヶ嶺城攻略等に従事伊達政宗文書にて「調儀」と入った指令書いくつか残されている。元親は天正17年1589年)、駒ヶ嶺城防衛に際して初陣した。慶長5年1600年七月政宗の命により刈田郡白石城攻め陽動作戦として敵中の河股城(元の居城当時上杉領)に電撃侵攻し奪取。河股城は白石城越えて福島城より更に南に位置し上杉からするといきなり領内に敵が出現した形となる。河股城を陥落させた後、兵を分散小島大波飯野に兵を出し福島城の上勢を挑発。元親自身福島方面立子山大館向かい、陣を張った大館では上杉方の援軍迎撃して河股城に撤退。城に引きこもり幾度か防戦陽動役割果たしたところで駒ヶ嶺城撤退した。 これに先立つ7月上旬直江兼続相馬家川俣の東に位置)に使者立てたが(連携模索か)、草野境(福島県飯館近隣)で伏兵襲われたと残しており(七月二十二日 大津助丞宛書状)、上杉氏動向探り伊達家側の暗躍していた様子見受けられる川俣での攻防について伊達家側の視点では「伊達家治家記録 桜田元親合戦書上」、上杉家側の視点では「三公外史」、「慶長五年七月廿七日直江兼続書状」に記されている。 伊達側の記録内容上記通り上杉側「直江兼続書状」では、兼続は河股城奪還桜田討ち果たした家臣ねぎらい家臣小手郷、大館撫で斬り敢行したことについて「心地次第」と褒めている。 白石城陥落戦闘状態にある情勢下、桜田潜伏の可能性排除したのか、若しくは後方撹乱され白石城救援出来なかったことに立腹していたのか。室町時代桜田隠岐守宛越後上杉房定書状残り江戸時代は敵として上杉家記録残っていることは、周辺諸国の情勢変化時代の移り変わり反映している。[独自研究?] 「桜田家史」での記録おおむね合戦書上」の通りもう少し詳細に描かれている。川俣では最初飯野に陣を敷き城主安田太郎左衛門討って出たところを退路断って撃破。河股城を攻略し安田太郎左衛門を討取った大館では上杉援軍敗退その後河股城に籠城した際は、伊達政宗敗退したとの流言挑発により城内動揺していた。しかしその後政宗からの使者内府からの制止もあり(白石城より先への)軍を引くとの情報もたらされ退却決意夜陰乗じて伊達撤退の報で油断をした上杉方に奇襲をかけた後、帰陣したとある。桜田家史は総じて日付誤りは多いが、敗退出奔咎め受けた等、不都合なことも記録残している傾向がある。[独自研究?] 慶長7年1602年)には、仙台城築城伴って暴動起こした小人鬼庭綱元と共に鎮圧。(桜田家史では、覚範寺近隣上杉家家人潜伏して決起。元親は追い詰められ自害寸前陥ったとしている) 元和元年1615年)、政宗の命を受けてその庶長子である伊達秀宗家臣となり、伊予国宇和島藩藩政担った。この時の地位侍大将禄高1900であった。 尚、片倉代々記他、仙台藩作成記録には小手森城攻略時に桜田元親との記載出てくるが、死亡時の年齢から逆算するとこれは桜田資親(参河守、右兵衛尉)の誤り思われる。[独自研究?] (元親死亡時の年齢江戸時代の記録であるため、正しいものと判断し逆算)[独自研究?]

※この「伊達政宗の時代」の解説は、「桜田元親」の解説の一部です。
「伊達政宗の時代」を含む「桜田元親」の記事については、「桜田元親」の概要を参照ください。

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