伊達政宗と和睦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 07:41 UTC 版)
当時、伊達政宗は南方で蘆名氏・相馬氏と敵対しており、加えて大崎と縁戚関係であった最上義光が伊達氏に落とされた黒川・志田両郡を攻略するなど伊達軍と交戦状態だった。猶予を得た大崎は、伊達氏の援軍が去り孤立状態にある氏家吉継に対する圧迫を強めた。天正17年(1589年)2月、氏家吉継は岩出沢から米沢に出て、伊達政宗に出兵を請うた。政宗は湯山隆信、中目兵庫頭ら大崎の家臣に内応を誘い、合戦との前後は不明だが3月24日までに一迫刑部を寝返らせた。最上義光は2月12日に娘を大崎に嫁がせる約束をした。 2月、蘆名氏が伊達氏に対する攻勢を強め、小手森城主が相馬氏に寝返るなど、伊達もまた周囲に相馬・最上・蘆名といった敵を抱えて思うように戦力を集中できない状況にあった。伊達政宗の母義姫は最上義光の実妹であり、伊達・最上両家の潰し合いを防ごうと和議を働きかけた。その働きにより、4月16日に伊達と大崎の間で和議が整った。義隆が呑んだ三か条の条件は、大崎は今後伊達の「馬打同然之事」、すなわち伊達軍の一員として戦うこと、山形(最上義光)と縁辺を切り当方(伊達政宗)と縁約すること、氏家派に敵対しないことである。切ったり結んだりする「縁」は、上述の婚約のこととされるが、もう少し漠然とした同盟関係と解する説もある。しかし、伊達と最上の和睦はならず、5月に伊達家臣泉田重光を大崎氏から最上氏が引き取り人質とすることで和睦を結んだ。 しかしこの後も、大崎に叛いた氏家吉継と富沢貞運の処遇について折り合いがつかず、大崎義隆が正式に誓詞を送ったのは6月にずれこんだ。この月、伊達政宗は南に向かって進発し、摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼした。この戦いには大崎の鉄砲隊・最上の軍勢も参加した。蘆名氏の脅威を取り除いた伊達氏は大崎氏への圧力を強め、家臣を寝返らせようと働きかけ、12月には大崎攻めの計画を練るよう家臣に命じた。
※この「伊達政宗と和睦」の解説は、「大崎義隆」の解説の一部です。
「伊達政宗と和睦」を含む「大崎義隆」の記事については、「大崎義隆」の概要を参照ください。
- 伊達政宗と和睦のページへのリンク