伊達政宗との死闘
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「相馬義胤 (十六代当主)」の記事における「伊達政宗との死闘」の解説
10月8日、伊達輝宗が二本松義継に捕らわれて死去。14日には政宗の二本松攻めの援軍として田村清顕と共に三春城より出陣した。しかし、佐竹義重が二本松城救援のために北上してくると、義胤は他の南奥諸大名と共に佐竹方に付いた。11月17日の人取橋の戦いでは、蘆名・佐竹連合軍に加わり、約300騎で佐竹勢と二階堂勢との間に本陣を構え、東義久、岩城常隆らが伊達勢の高倉城を貫くと、佐竹義重・白川不説斎の本陣勢と共に政宗の本陣へ攻め上った。 天正14年(1586年)、二本松城を攻めあぐねていた伊達方は、老臣伊達実元を中心に政宗を説き伏せ、田村清顕と共に義胤に和議の斡旋を依頼。その結果、7月16日に二本松城は開城され、二本松国王丸・新城盛継らが会津へと退去した。実元の子・伊達成実は二本松城主となった。成実の正室・亘理御前は義胤から見れば妹の娘に当たる。10月9日に田村清顕が死去すると、田村家中では相馬・伊達のどちらにつくべきかで争いが生じ、これに伴って義胤と政宗の関係は決裂していく。11月、蘆名盛隆の実子・亀王丸が死去した。 天正15年(1587年)3月、蘆名家臣金上盛備の斡旋で佐竹義重の実子・義広が白河結城家から出て、蘆名家へ養子に迎えられた。これに対して4月25日、政宗は相馬・岩城との同盟を強くすべく家臣国井新左衛門を三春に遣わし、岩城・相馬の両家の和睦を田村の家臣に取持つよう命じた。仲介役は田村起雲斎憲顕(田村義顕の次男)が務めた。5月18日、和睦が成立して相馬領と岩城領の国境である大菅原(富岡町)で義胤は岩城常隆と対面した。 天正15年(1587年)6月、九州平定を果たした豊臣秀吉は、目標を朝鮮や琉球の支配、東国平定に変じていく。 10月14日、最上義光の娘を妻にしていた鮎貝宗信が伊達家を離反し、討伐された。この頃になると、佐竹氏は中央の豊臣政権が発した惣無事令によって私戦を禁じられ、さらに伊達氏と蘆名氏の和睦斡旋を命じられたために、兵を公然と動かすことができなくなった。これにより惣無事令を無視する伊達氏は軍事行動が容易になり、周辺諸侯には伊達氏の勢力伸長を抑えられなくなった。同年、相馬氏も豊臣政権より奥羽惣無事を命ぜられている(『天正15年(1587年)極月3日富田左近将監書状。相馬家文書(原町市史)』)。 天正16年(1588年)2月、大崎家中の内紛に介入した政宗が敗北すると(大崎合戦)これを好機とみた蘆名義広は仙道を北上し、伊達領に攻め入った(郡山合戦)。4月18日、蘆名勢が伊達成実、大内定綱らによって退けられると、4月20日、政宗は相馬側へ離反した田村家臣石川弾正を討つべく安達郡築館(二本松市木幡)に出陣。義胤は月山(築山)城(二本松市戸沢)に入り弾正を支援した。5月11日、義胤は田村清顕継室(義胤叔母)の依頼に応じて、田村家中の伊達派を押さえ込もうと三春城入城をはかったが、伊達派の田村月斎らに銃撃されて江井胤治ら側近多数が討死し、命からがら船引城(田村市船引町)へ逃れた(天正田村騒動)。5月15日、伊達政宗・片倉小十郎が大越城(田村市大越町上大越)を攻めたが、守備していた標葉郷大将の泉田雪斎・胤清父子らがこれを撃退した。5月16日、政宗は石川弾正と相馬義胤の兵を小手森(二本松市針道)に攻めた。義胤が船引から脱出し、石川弾正が月山城を捨てると、5月17日には石沢(田村市船引町石沢)・百目木(二本松市)の城も落とされたが、閏5月23日、亘理元宗父子が新地・駒ヶ嶺の間の大森へ出陣してくると義胤はこれを撃退した。6月20日、義胤は田村顕康(月斎の子)を田村郡宇都志城(田村市船引町上移)に攻めるが、鬼庭綱元が百目木より出陣し押し返され退却を余儀なくされた(貞山公治家記録)。同月、仙道方面での蘆名勢と伊達勢の戦いは膠着状態に入った。7月4日、義胤は常盤(田村市常葉町)を攻めた。「伊達治家記録」7月8日条には「義胤今岩井沢ニ在リ」と記されている。以後、義胤が岩井沢城(規模は不明)を本陣としており、当時陣場の目標として植えられた松は田村市の指定天然記念物「陣場の松」として今も残る。7月16日、岩城氏の仲介で蘆名・佐竹氏と伊達氏は和睦した。結果、8月、田村家当主には伊達方の推す田村宗顕が即いた(田村仕置)。 天正17年(1589年)正月2日、岩城常隆が田村領小野に侵攻し、5日、田村梅雪斎(相馬派)の小野城(小野町)が落城。4月20日、同じく岩城氏によって鹿俣城(田村市)が落城する。伊達政宗は隣国相馬勢による背後からの攻撃を牽制するため、5月1日、川俣城主桜田元親らに命じて飯土居(相馬郡飯舘村飯樋)小屋林の砦を攻撃、その動きを察知して立てこもった相馬勢と合戦となった。5月4日、伊達政宗によって仙道蘆名方の安子ヶ島城が、次いで5日、高玉城が落城。同月、相馬・岩城・佐竹が田村領を攻めた。17日、相馬・岩城は常盤城(田村市常葉町)を攻め落とすが、18日の伊達治家記録に「義胤ハ田村ノ内岩井沢ニ出馬セラレ」とあるように、伊達氏に軍の動きを察知されており、19日には駒ヶ嶺城、20日に新地(蓑首城)など宇多郡北部の拠点を奪い取られた。政宗は駒ヶ嶺に黒木宗元、新地に亘理重宗を配した(政宗記・東奥中村記)。27日、門沢城(田村市船引町)を岩城勢が、6月4日、大平城(郡山市大平町)を佐竹勢が落とした。しかし猪苗代盛国が伊達方に寝返り、6月5日に蘆名義広は摺上原の戦いで政宗に敗れ、蘆名氏は本城黒川城を失い義広は実家佐竹氏の常陸国に逃れ、事実上の滅亡となった。 連合勢は田村領に在陣。飯土井小屋林の砦は鉄砲隊を投入した伊達勢に一時占領されていたが、6月18日、相馬父子が出陣し、ようやく奪還に成功した。この合戦による戦死者の数は百人を超えたと記録に残る。7月3日、岩城常隆は下枝城(郡山市中田町下枝)に進攻するも、伊達勢の激しい抵抗にあい退却している。
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