伊達政宗との死闘とは? わかりやすく解説

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伊達政宗との死闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 08:30 UTC 版)

相馬義胤 (十六代当主)」の記事における「伊達政宗との死闘」の解説

10月8日伊達輝宗二本松義継捕らわれて死去14日には政宗二本松攻め援軍として田村清顕と共に三春城より出陣した。しかし、佐竹義重二本松城救援のために北上してくると、義胤は他の南奥諸大名と共に佐竹方に付いた11月17日人取橋の戦いでは、蘆名佐竹連合軍加わり、約300騎で佐竹勢と二階堂勢との間に本陣構え東義久岩城常隆らが伊達勢の高倉城を貫くと、佐竹義重白川不説斎の本陣と共に政宗本陣攻め上った天正14年1586年)、二本松城攻めあぐねていた伊達方は、老臣伊達実元中心に政宗説き伏せ田村清顕と共に義胤に和議斡旋依頼その結果7月16日二本松城開城され、二本松国王丸・新城盛継らが会津へと退去した。実元の子伊達成実二本松城となった成実正室亘理御前は義胤から見れば妹の娘に当たる。10月9日田村清顕死去すると、田村家中では相馬伊達のどちらにつくべきかで争い生じ、これに伴って義胤と政宗の関係は決裂していく。11月蘆名盛隆実子・亀王丸死去した天正15年1587年3月蘆名家金上盛備斡旋佐竹義重実子義広白河結城家から出て蘆名家養子迎えられた。これに対して4月25日政宗相馬岩城との同盟強くすべく家臣国井新左衛門三春遣わし岩城相馬両家和睦田村家臣取持つよう命じた仲介役は田村雲斎憲顕(田村義顕次男)が務めた5月18日和睦成立して相馬領と岩城領の国境である大菅原(富岡町)で義胤は岩城常隆対面した天正15年1587年6月九州平定果たした豊臣秀吉は、目標朝鮮琉球支配東国平定変じていく。 10月14日最上義光の娘を妻にしていた鮎貝宗信伊達家離反し討伐された。この頃になると、佐竹氏中央の豊臣政権発した惣無事令によって私戦禁じられ、さらに伊達氏蘆名氏和睦斡旋命じられたために、兵を公然と動かすことができなくなった。これにより惣無事令無視する伊達氏軍事行動容易になり、周辺諸侯には伊達氏勢力伸長抑えられなくなった同年相馬氏豊臣政権より奥羽惣無事を命ぜられている(『天正15年1587年極月3日富田左近将監書状相馬家文書原町市史)』)。 天正16年1588年2月大崎家中の内紛介入した政宗敗北すると(大崎合戦)これを好機とみた蘆名義広仙道北上し伊達領に攻め入った郡山合戦)。4月18日蘆名勢が伊達成実大内定綱らによって退けられると、4月20日政宗相馬側へ離反した田村家石川弾正を討つべく安達郡築館(二本松市木幡)に出陣。義胤は月山築山)城(二本松市戸沢)に入り弾正支援した5月11日、義胤は田村清顕継室(義胤叔母)の依頼に応じて田村家中の伊達派を押さえ込もう三春城入城はかったが、伊達派の田村月斎らに銃撃され江井胤治ら側近多数討死し、命からがら船引城(田村市船引町)へ逃れた(天正田村騒動)。5月15日伊達政宗片倉小十郎大越城(田村市大越町上大越)を攻めたが、守備していた標大将泉田雪斎・胤清父子らがこれを撃退した5月16日政宗石川弾正相馬義胤の兵を小手二本松市針道)に攻めた。義胤が船引から脱出し石川弾正月山城を捨てると、5月17日には石沢田村市船引町石沢)・百目木二本松市)の城も落とされたが、閏5月23日亘理元宗父子新地駒ヶ嶺の間の大森出陣してくると義胤はこれを撃退した6月20日、義胤は田村顕康(月斎の子)を田村郡宇都志城(田村市船引町上移)に攻めるが、鬼庭綱元百目木より出陣し押し返され退却余儀なくされた(貞山治家記録)。同月仙道方面での蘆名勢と伊達勢の戦い膠着状態に入った7月4日、義胤は常盤田村市常葉町)を攻めた。「伊達治家記録7月8日条には「義胤今岩井沢ニ在リ」と記されている。以後、義胤が岩井沢城(規模不明)を本陣としており、当時陣場目標として植えられ田村市指定天然記念物陣場」として今も残る。7月16日岩城氏仲介蘆名佐竹氏伊達氏和睦した結果8月田村家当主には伊達方推す田村宗顕が即いた(田村仕置)。 天正17年1589年正月2日岩城常隆田村小野侵攻し5日田村梅雪斎相馬派)の小野城小野町)が落城4月20日同じく岩城氏によって鹿俣城(田村市)が落城する。伊達政宗隣国相馬勢による背後からの攻撃牽制するため、5月1日川俣城主桜田元親らに命じて土居相馬郡飯舘村飯樋小屋の砦を攻撃、その動き察知して立てこもった相馬勢と合戦となった5月4日伊達政宗によって仙道蘆名方の安子島城が、次いで5日高玉城落城同月相馬岩城佐竹田村領を攻めた17日相馬岩城常盤城田村市常葉町)を攻め落とすが、18日伊達治家記録に「義胤ハ田村ノ内岩井沢出馬セラレ」とあるように、伊達氏に軍の動き察知されており、19日には駒ヶ嶺城20日新地蓑首城)など宇多郡北部拠点奪い取られた。政宗駒ヶ嶺黒木宗元、新地亘理重宗配した政宗記・東奥中村記)。27日門沢城(田村市船引町)を岩城勢が、6月4日大平城郡山市大平町)を佐竹勢が落とした。しかし猪苗代盛国伊達方寝返り6月5日蘆名義広摺上原の戦い政宗敗れ蘆名氏本城黒川城失い義広実家佐竹氏常陸国逃れ事実上滅亡となった連合勢は田村領に在陣。飯土井小屋の砦は鉄砲隊投入した伊達勢に一時占領されていたが、6月18日相馬父子出陣し、ようやく奪還成功した。この合戦による戦死者の数は百人超えた記録に残る。7月3日岩城常隆下枝城(郡山市中田町下枝)に進攻するも、伊達勢の激し抵抗にあい退却している。

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