中条家文書
主名称: | 中条家文書 |
指定番号: | 137 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1992.06.22(平成4.06.22) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 古文書 |
ト書: | |
員数: | 233通 |
時代区分: | 鎌倉~江戸 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 中条家文書は、中世越後国奥山庄に盤踞した三浦和田氏の惣領中条氏に伝来した古文書で、建久三年(一一九二)十月廿一日付の将軍家政所下文を上限として江戸時代に至る二百三十三通が、未成巻のままに裏打を施した状態で伝わっている。 拠点となった奥山庄地頭職は、和田義茂の後、弟宗実、義茂の子高井重茂、その妻津村尼によって相伝され、嘉禎四年(一二三八)に家督を相続した時茂の代に奥山庄の経営が本格化し、地頭請所化に成功する。鎌倉時代後期以降所領の分割相続によって一族の内部の対立も深刻さを増すが、室町中期には惣領の庶子に対する統制を強めつつ家臣化を促進し、同族黒川氏と共に揚北【あがきた】の有力国人領主に成長する。上杉氏の領国下においては外様として自立性を保ち、慶長三年(一五九八)上杉景勝の会津移封に伴って、のち米沢に転じ、上杉家臣として維新を迎えた。 本文書はかかる中条氏の歴史を反映して、その中心をなすのは鎌倉から室町時代前期の文書である。いずれも所領の分割譲与に関する譲状や、幕府の安堵状、あるいは所領関係の文書がまとまっている。文書中には、源頼朝の征夷大将軍就任に伴う、袖判下文から将軍家政所下文への移行時期に発給された建久三年十月廿一日将軍家政所下文や、のちに惣領中条・南条関沢・北条黒川をおのおの惣領とする鼎立体制成立への契機となった建治三年(一二七七)十一月五日道円(高井時茂)譲状などの注目すべき文書が少なくない。また中条藤資に宛てた永禄十一年(一五六八)拾一月晦日上杉輝虎起請文などの古文書学上にも注目される文書も含まれている。 このように中条家文書は、とくに東国武士の惣領を中心とした一族の結合形態を明らかにし、惣領制による分割相続から庶子被官化を前提とした嫡子単独相続制への移行など、中世領主制研究上にみるべきものが多い史料である。 |
中条文書
(中条家文書 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/09/22 07:08 UTC 版)
中条文書(なかじょうもんじょ)とは、越後国の武士で後に米沢藩に仕えた中条氏伝来の文書。現在は山形大学所蔵のものや新潟県立歴史博物館所蔵『越後文書宝翰集』所収のもの、中条町→胎内市所蔵のものなどが知られている。
概要
中条氏の祖である三浦和田氏は、鎌倉幕府成立時に越後国奥山荘を与えられて同地に移住、中条氏はその一部を継承した。中条藤資は上杉謙信に帰属して重臣として重用されたことで知られている。
中世以来の中条氏所有の所領関係などの文書は幕末まで同氏に伝えられていたが明治維新後に流出、現在は山形大学や中条氏の故地であった中条町に寄贈された文書や個人所有の文書など500点以上のものが知られている。特に所領相論の際に作成された荘園絵図「奥山荘波月条絵図」(胎内市所蔵)などは良く知られている。中世武士の所領経営や分割相続の実態などを知る上で貴重な史料も多いとされている。
参考文献
- 永村真「中条文書」(『国史大辞典 10』(吉川弘文館、1989年) ISBN 978-4-642-00510-4)
- 阿部洋輔「中条文書」(『日本史大事典 5』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13105-5)
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