グスタフ2世の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 14:52 UTC 版)
「シュテッティン条約 (1630年)」の記事における「グスタフ2世の死後」の解説
グスタフ2世は1632年11月6日のリュッツェンの戦いで戦死した。ブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルムは5月31日にシュテッティンで行われた葬儀に参加、ポメラニアの継承に参加できればシュテッティンの同盟に加入すると提案した。ポメラニア家最後の男子ボギスラフ14世(英語版)は1631年4月にすでに卒中をきたしていた。スウェーデンはブランデンブルクの提案を承認も拒否もしなかった。1634年11月19日、「連隊憲法」(Regimentsverfassung)によりポメラニアの行政が改革された。1569年の分割によりヴォルガストとシュテッティンでそれぞれ成立した政府は3月18日に統合されており、新しい憲法ではこの政府の構成を総督1人、総裁1人、ほか成員7人に変更した。 1634年のネルトリンゲンの戦いでスウェーデンがはじめて大敗すると、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世とプロテスタント諸侯数人が1635年5月にプラハ条約を締結した。カルヴァン派のブランデンブルク選帝侯は条約が復旧令を撤廃しただけでカルヴァン派の容認について言及しなかったので、嫌々ながら締結したのであった。ブランデンブルク選帝侯に締結させるべく、スウェーデンとフェルディナント2世はブランデンブルクにポメラニア公国の継承を保証した。 また、ネルトリンゲンの戦いで敗北したスウェーデン軍の大半(うち数千人が負傷していた)はポメラニアに撤退、続いて帝国軍が1636年にポメラニア公国に進軍した。スウェーデン枢密院(英語版)はシュトラールズントを除くポメラニアを放棄することさえ検討した。スウェーデン兵士の暴虐さもポメラニアのスウェーデン軍への供出物資もその後数年に頂点に達した。スウェーデン軍と帝国軍の傭兵は両方とも補給が不足したため、現地民から強制徴収していた。1637年に発されたカピチュレーションでは軍の「侵入」と「無礼さ」について述べたが、兵士への厳罰はしないとした。 1637年2月24日、ポメラニアの官僚はボギスラフ14世が死去してもポメラニアの1634年基本法は有効のままであると定め、スウェーデンもそれを承認したが、ブランデンブルクは拒否した。
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