グスタフスブルク区
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「ギンスハイム=グスタフスブルク」の記事における「グスタフスブルク区」の解説
この市区の名前は、三十年戦争時の1632年にマインシュピッツに要塞を築いたスウェーデン王グスタフ・アドルフにちなんでいる。この際にローマ時代の墓石が発見され、その複製が現在市役所の玄関ホールに設置されている。1635年にスウェーデン軍はグスタフスブルクを放棄し、その後千変万化の戦争を経て、最終的にはフランス軍に占領された。1673年にマインツ選帝侯ヨハン・フィリップ・フォン・シェーンボルンは要塞を取り壊した。1740年まで、地域計画中唯一の入植地としてレンガ工場が記録されている。 鉄道開通に伴って、1858年にグスタフスブルク港駅が設けられた。その1年後にニュルンベルクのクレット & Co.(後のマシーネンファブリーク・アウクスブルク=ニュルンベルク (M.A.N.))がライン川の橋梁建設を開始した。このため、グスタフスブルクに作業場が設けられ、工事労務者とその家族が定住した。村は急速に工業化されていった。1928年の「ドイツ労働展 ― 技術都市」の際に建設されたドレスデンのクーゲルハウス(球状家屋)もこの工場で造られた。 1927年にギンスハイムとグスタフスブルクとが合併し、複合自治体ギンスハイム=グスタフスブルクが成立した。1930年にギンスハイム=グスタフスブルクは、マインツ=グスタフスブルクとして、マインツの市区となった。 戦略上重要なグスタフスブルクは第二次世界大戦中、イギリス空軍およびアメリカ空軍の絶え間ない空襲にさらされた。1942年秋に激しい攻撃を受け、1944年の晩秋以降は、毎日のように空襲警報が鳴り続けた。1945年2月27日、グスタフスブルクは最も激しい攻撃を受けた。主な攻撃目標は、特に1945年3月2日の連合軍戦闘爆撃機による攻撃では、M.A.N.の工場であった。1945年3月末、アメリカ軍の入城により、グスタフスブルクの戦争は終結した。 第二次世界大戦後、1945年にヘッセン州が建設され、マインツ市のライン右岸の市区はヴィースバーデンに編入されるか、あるいは独立した自治体となった。マインツ=グスタフスブルクはギンスハイム=グスタフスブルクとして独立した自治体となり、グロース=ゲーラウ郡に再び編入された。 1983年9月20日に M.A.N. の電算機センターで、ドイツ革命細胞 (RZ) による爆弾テロが起こった。その物的損害額は何百万マルクにも及んだ。 見所は、2つの教会、マイン川の堰、保護文化財に指定されているクラマー=クレット労働者集落である。ここでは毎年、ロマンチックな雰囲気の中でクリスマスマーケットが開催される。最大の祭がブルクフェスト(城塞祭)である(聖霊降臨節)。
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