ヴァンダル人達のその後
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「ヴァンダル人」の記事における「ヴァンダル人達のその後」の解説
中世より、ヴァンダル人はポーランド人とチェコ人をはじめとした西スラヴ人の主要な先祖を構成しているのではないかという通念がある(プロト西スラヴ人)。 実際に、一部のヴァンダル人は東ドイツや、レグニツァやグウォグフなどのあるシレジアにかけての地域に戻っている。この移動は、のちのヴァンダロルム国(regionem Wandalorum)とともに記録に残されており、そこで7世紀にはフランク王国のピピン1世がヴァンダル人と出会っている。これはヴァンダル王国が滅亡してからたった1世紀後のことである。 8世紀にカール大帝が自らポラーブ人(西スラヴ系の部族)を平定した時、彼らを「ヴァンダル人」と呼んでいる。990年ごろのフランクの歴史家であるアウクスブルクのゲルハルトはその著書の中でポーランド公ミェシュコ1世をヴァンダロルム国の公と呼んでいる。1056年の歴史書Annales Augustaniでは、ザクセン人が隣接するスラヴ部族との戦争(ポーランドのボレスワフ1世とのドイツ・ポーランド戦争)で大敗北したことについて「ザクセン人はヴァンダル人に討たれた。」と書かれている。11世紀の歴史家であるブレーメンのアダムは「ゲルマニアのうちで最も広大な地方であるスラーヴィアにはヴィンニル人が住んでいるが、彼らは正式にはヴァンダル人と呼ばれる。スラーヴィアはザクセンよりも広く、ボヘミア族(チェコ人)とポラン族(ポーランド人)が住んでいる。このボヘミア族とポラン族の習俗や言語は互いにまったく同じである。」と書いている。12世紀のクラクフ(ポーランド)の歴史家ヴィンツェンティ・カドゥウベック(英語版)は「ポーランドの人々は昔はヴァンダル人と呼ばれた。これはヴィスワ川の古名であるヴァンドゥルス川(ポーランド語: Vandalus)から来ているが、このヴァンドゥルスという川の名は、その昔ここに身を投げて亡くなったポーランドの古い部族の姫の名ヴァンダに由来する。」と述べている。12世紀のイギリスの歴史家であるティルバリーのジャーヴァジーは、「ポーランド人はヴァンダル人と呼ばれている。」と書いている。 ドイツからポーランドにかけてのこの地域は、今でもドイツではヴァンダロルムと呼ばれている。ポーランドとチェコの古い伝説ではヴァンダル人と推測されるレフ(ポーランド人の古名レフ族)とチェフ(チェコ族)という双子の兄弟がおり、レフはシレジアから北方へ向かってヴィエルコポルスカ地方に定住し、チェフは南方へ向かってボヘミア地方に定住したとされる。 近世にはロシアの国家起源にヴァンダル人を結びつける主張もでてきた(ヴァンダル=ヴァリャーグ説)。16世紀の神聖ローマ帝国の大使ジギスムント・フォン・ヘルベルシュタインは、その著作で、「ヴァンダル人はルーシの言葉を使い、ルーシの宗教を持っていた」と記し、「ロシア人はヴァグリヤの地から言葉も習俗も宗教も違っていた異民族のヴァンダル人つまりヴァリャーグを呼び寄せ権力を委ねたのだと私は考える」と自説を述べている。ヘルベルシュタインの記述から、ロシアの学者の中には、ヴァリャーグはノルマン人ではなくスラヴ化したヴァンダル人、即ちヴェンド人であると唱える者がいる。先のポーランドとチェコに伝わるレフとチェフの兄弟伝説は、近世になるとレフ・チェフ・ルス三兄弟の伝説として書き換えられ、レフはシレジアから北方へ向かってヴィエルコポルスカ地方に定住し、チェフは南方へ向かってボヘミア地方定住し、そしてルスはるか東方へ向かって行ってルーシ地方すなわちロシアに定住したとされた[要出典]。 東ゴート族のテオドリック大王と西ゴート族の指導者は、ヴァンダル人やブルグント人、クローヴィス1世を王とするフランク王国との政略結婚によって同盟関係を結び、生き残りを計った。 後年、スウェーデンの伝承では、北アフリカに達したヴァンダル人と、アジア、ヨーロッパを席巻したゴート族が、スウェーデン人(スヴェーア人(スウェーデン語版))の先祖であると言うゴート起源説(古ゴート主義)が生まれた。他にも21世紀初頭に断絶したメクレンブルク家は祖先をヴァンダル人の王とし、13世紀までに「ヴァンダル人の王」と名乗っていた。
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