ヴァンダルによる征服と東ローマ帝国による奪回とは? わかりやすく解説

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ヴァンダルによる征服と東ローマ帝国による奪回

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 05:00 UTC 版)

カルタゴ」の記事における「ヴァンダルによる征服と東ローマ帝国による奪回」の解説

5世紀ヴァンダル族の王ガイセリックカルタゴ占領してこの地方ヴァンダル王国建国カルタゴはその首都となったカルタゴ西ローマ帝国艦隊拿捕したヴァンダル王国は、シチリア島サルディニア島コルシカ島などを征服地中海における一大勢力となった。更にガイセリック442年にはイタリアへ上陸しローマへ侵攻ガイセリックローマ教皇レオ1世申し出を受け、ローマ破壊こそしなかったが、カルタゴより襲来したヴァンダル族によってローマ占領され略奪受けた468年にはバシリスクス率い東ローマ帝国艦隊壊滅させた。 東ローマ帝国によるカルタゴ奪回試み何度失敗したのち、ようやく6世紀になって征服成功したローマ帝国復興企図していた東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、533年西ローマ帝国皇女血を引くヒルデリック王がその遠いいとこであるゲリメルによって廃位されたことを口実として、ベリサリウス将軍とする軍隊派遣したアド・デキムムの戦い)。ヴァンダル王国軍隊あっけなく敗北し533年10月15日日曜日9月14日という説もある)、東ローマ帝国軍は、カルタゴ入城した略奪虐殺は行わなかった。 こうしてカルタゴは再びローマ帝国領土となったが、ムーア人反乱多発したため皇帝マウリキウス時代に、カルタゴ総督府英語版)が置かれイタリア半島ラヴェンナ総督府並んで帝国西方における重要拠点として組み込まれた。610年カルタゴ総督ヘラクレイオス息子ヘラクレイオス父子同名)は、時の皇帝フォカス打倒し、自ら皇帝の座に就いている。 しかし、東ローマ帝国は、アラブ人侵入を防ぐことができなかった。647年ウマイヤ朝勢力カルタゴ攻撃した。これは辛うじて退けたものの670年から683年にかけて、再び攻撃を受け、陥落した698年には、アフリカ大陸にあった東ローマ帝国最後拠点ウマイヤ朝占領したカルタゴ戦い英語版))。そして、イスラム勢力占領したこの時期よりカルタゴ荒廃急速に進行しウマイヤ朝によってカルタゴ衛星都市であったチェニェスの跡にチュニス築かれると、カルタゴは完全に放棄された。

※この「ヴァンダルによる征服と東ローマ帝国による奪回」の解説は、「カルタゴ」の解説の一部です。
「ヴァンダルによる征服と東ローマ帝国による奪回」を含む「カルタゴ」の記事については、「カルタゴ」の概要を参照ください。

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