フルエーラ2世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 08:49 UTC 版)
| フルエーラ2世 Fruela II | |
|---|---|
| アストゥリアス国王 レオン国王 | |
|   
        12世紀に描かれたフルエーラ2世
        | |
| 在位 | 910年 - 924年(アストゥリアス王) 924年 - 925年(レオン王) | 
| 別号 | ガリシア国王 | 
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| 出生 | 875年頃  アストゥリアス王国、オビエド | 
| 死去 | 925年7月  レオン王国 | 
| 埋葬 |  レオン王国、レオン大聖堂 → オビエド大聖堂 | 
| 配偶者 | ヌニロ・ヒメネス | 
| ウラカ・ビント・アブドゥッラー | |
| 子女 | アルフォンソ・フロイラス ラミロ オルドーニョ | 
| 家名 | アストゥリアス家 | 
| 王朝 | ペレス朝 | 
| 父親 | アストゥリアス王アルフォンソ3世 | 
| 母親 | ヒメナ・デ・パンプローナ | 
| 宗教 | キリスト教カトリック | 
フルエーラ2世(Fruela II de León、875年頃 - 925年7月)は、アストゥリアス王(在位:910年 - 924年)、レオン王(924年 - 925年)。フロイラ(Froila)とも。
生涯
アストゥリアス王アルフォンソ3世と王妃ヒメナの三男として育った。910年に父よりアストゥリアス王国を継承した。
彼は主導権を持つ兄オルドーニョ2世と良好な関係を保った。2人はレコンキスタで協力し、オルドーニョが作成した免状に「Froila rex」と署名している。924年に兄オルドーニョが死ぬと、権力者たちはオルドーニョの息子たちを無視してフルエーラをレオン王に選出した。フルエーラは貴族と臣下に人気がなく、王位の簒奪を疑われている。彼は、西ゴート王ウィティザの末裔を自称するオルムードの子、ヘブルドとアレシンドを暗殺し、さらに貴族たちを遠ざけた。このために、彼は年代記においてわずか14か月間にすぎなかった治世を非難されている。歴史家ラモン・メネンデス・ピダルによれば、オルムードの縁者であったレオン司教フルニミオを追放している。いずれにせよ、フルエーラは14か月以上統治することなしに、925年初夏、ハンセン病に罹患して数日で急逝した。フルエーラの死によって継承問題が発生し、弟のラミーロ、先代オルドーニョ2世の息子たち、そしてフルエーラの年若い息子たちが権利を主張した。即時の継承に幾度かの議論がなされ、最終的にフルエーラの親族はオルドーニョ2世の親族に退けられた。
子女
最初の妻ヌニロ・ヒメネスとの間に1子をもうけた。
- アルフォンソ・フロイラス(932年没) - レオン王(925年 - 926年)
917年以前、バヌ・カシー家が支配するトゥデーラの総督の娘ウラカと再婚した。
- ラミロ(932年没)
- オルドーニョ(932年没)
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