治世前半の戦争と領土拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:16 UTC 版)
「ルイ14世 (フランス王)」の記事における「治世前半の戦争と領土拡大」の解説
詳細は「ネーデルラント継承戦争」および「仏蘭戦争」を参照 1659年のピレネー条約によってスペインの弱体化が決定的となり、フランス優位の時代に入った。ルイ14世は「盟主政策」と呼ばれるフランス王権を中心としたヨーロッパ体制の構築を企図しており、その最大の障害は疲弊したスペインではなく、海外貿易で莫大な富を築いていた新興勢力のオランダ(ネーデルラント連邦共和国)であると考えられた。オランダ内での議会派(都市商人)と総督派(封建貴族と農民)との内紛がルイ14世の企図を助けていた。当時のオランダは議会派のヨハン・デ・ウィットが指導者となっており、古くからの大貴族である総督派のオラニエ公ウィレム3世が巻き返しを図ることを恐れていた。 没落したスペインがルイ14世の最初の標的となった。ルイ14世はスペイン植民地に対する野心を持つイギリス、さらには神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結んでスペイン帝国の分割を交渉する。オランダとも防御・通商同盟を結び来たるべき対スペイン戦争に備えた。 1665年にルイ14世の義父であるスペイン王フェリペ4世が崩御すると、後妻が生んだ王太子が即位してカルロス2世となった。王妃マリー・テレーズの持参金がスペインからまったく支払われていない上にフェリペ4世の遺言ではカルロス2世が死去した場合、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の婚約者マルガリータ・テレサ(マリー・テレーズの妹)がスペイン領を相続することになっており、ルイ14世を苛立たせた。これに対してルイ14世はブラバント(スペイン領ネーデルラントの一州)はカルロス2世の異母姉である王妃マリー・テレーズが継承するべきものであるといわゆる「王妃の権利論」を掲げて領土の割譲をスペインに要求した。 1667年に帰属戦争(フランドル戦争)が勃発すると、ルイ14世は自ら軍を率いて戦った。兵数と装備で圧倒するフランス軍はフランドル国境地帯の要衝を容易に奪い取り、スペイン軍を後退させた。これに危機感を持ったオランダのウィットはこれ以上のフランスからの侵略を防ぐために、イギリスの外交官ウィリアム・テンプルと交渉をし、1668年にイギリスそしてスウェーデンとの三国同盟を結成した。イギリス・オランダといった海軍・通商の二大勢力の圧力を前にルイ14世は和平へと動いたが、フランシュ=コンテは断固として征服させた。結局、ルイ14世はアーヘンの和約の締結を余儀なくされ、フランスはフランドルの12の都市は確保したものの、フランシュ=コンテはスペインに返還している。アーヘンの和約はフランスにとって満足すべきものではなく、またルイ14世はオランダをひどく憎んだ。 三国同盟は長続きしなかった。1670年、イギリス王チャールズ2世はドーヴァー秘密条約を結んでフランスとの同盟に加わり、オランダと絶縁した。次にルイ14世は、イギリスと同様な同盟条約を結んでいたスウェーデンに参戦を促した。しかしスウェーデンの参戦は、オランダと結んだデンマークとブランデンブルク=プロイセンの参戦を招き、戦線がオランダから離れてしまうことになる。 1672年に海上からイギリス軍が、陸上からはフランス軍がオランダに攻め込んだ(仏蘭戦争)。オランダは海軍こそ名将デ・ロイテルのもとで強力であったが、陸軍は弱体であった。フランス軍は快進撃を続けてアムステルダムに迫り、占領地の住民の歓心を得るために金品をばらまく余裕さえ見せた。譲歩による講和を図ったウィットは兄のコルネリス・デ・ウィットと共に不満を抱いた民衆に殺害され、代わってオラニエ公が権力を掌握する。オラニエ公は堤防を決壊させて国土を泥沼に沈めて徹底抗戦の構えを示し、海軍もイギリス艦隊を破って制海権を維持した。 アムステルダム攻略の見通しが立たなくなり、戦争は長期化する。神聖ローマ皇帝、ドイツ諸侯の一部そしてスペインがオランダと同盟を結び、この一方でイギリス議会では利益のない戦争であるとして反戦論が高まり、1674年にイギリスはオランダと和平を結んで撤退した。オラニエ公は更にイギリスと結びつき、チャールズ2世の姪メアリーと結婚もした。この事態にルイ14世はオランダから兵を引かせて、代わりにフランシュ=コンテに攻め込ませ皇帝軍およびスペイン軍を破り、制圧した。陣容を立て直したフランス軍が海陸でオランダ軍を破って優位を確保した状態で1678年にナイメーヘンの和約が結ばれる。ルイ14世はスペインにフランシュ=コンテとフランドルの幾つかの地域を割譲させ、一方、オランダの占領地は返還し、関税面での譲歩までしており、不利益を被ったのはもっぱらスペインであった。オランダ征服という当初の戦争目的こそ果たせなかったが、有利な条件での講和に成功したことでフランスの国際的威信を示した。 ナイメーヘンの和約はヨーロッパにおけるフランスの影響力を拡大させたが、ルイ14世はまだ満足していなかった。翌1679年、彼は外務担当国務卿シモン・アルノー・ド・ポンポンヌを解任、軍事力ではなく法的手続きをもって領土の拡大を達成しようと目論んだ。ルイ14世は条約のあいまいさを利用して司法機関に割譲地の周辺地域を「その付属物」であると判決させて「平和的に」併合する手段を講じさせた。この国王の主張に基づき、いずれの土地がフランス領土たるべきかを調査する統合法廷が設置され、その決定に従ってフランス軍がその土地を占領してしまった。 これによって得られた僅かな土地を併合することがルイ14世の本当の目的ではなかった。彼は戦略要地であるストラスブールの獲得を欲していたのである。ストラスブールはヴェストファーレン条約によってフランス領となったアルザス地方の一部ではあったが、同条約ではアルザスに加えられていなかった。ルイ14世の法的口実に基づいて、フランスは1681年にストラスブールを軍事占領した。ルイ14世は同時に北イタリアのカサーレも占領しており、この強引な手法はドイツ人の反仏感情を煽る結果となった。 ルイ14世の有力な競争相手の神聖ローマ皇帝レオポルト1世(オーストリア・ハプスブルク)はオスマン帝国との戦争でウィーンを脅かされていた(第二次ウィーン包囲)。1683年にフランスと戦端を開いたスペインは再び撃破されて、リュクサンブール(ルクセンブルク)を奪われた(再統合戦争)。1684年のレーゲンスブルクの和約でスペインはフランスによるリュクサンブールとその他の併合地の既成事実を認めさせられた。オーストリアはオスマン帝国を撃退した後も、ルイ14世への敵対行動を取らなかった。
※この「治世前半の戦争と領土拡大」の解説は、「ルイ14世 (フランス王)」の解説の一部です。
「治世前半の戦争と領土拡大」を含む「ルイ14世 (フランス王)」の記事については、「ルイ14世 (フランス王)」の概要を参照ください。
- 治世前半の戦争と領土拡大のページへのリンク