治世後期(1901年〜1913年)
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「ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)」の記事における「治世後期(1901年〜1913年)」の解説
1901年1月22日に、イギリスのヴィクトリア女王が崩御すると、ゲオルギオス1世はヨーロッパで2番目に在位期間の長い君主となった。ゲオルギオス1世は、新しくイギリス王となったエドワード7世と変わらず良好な関係を保っており、両国の関係にも良い影響を及ぼした。特に、イギリスからクレタ島の総督を務めるゲオルギオス王子への援助を取り付けるうえで、非常に重要なポイントとなった。しかし、クレタ島議会のリーダーであるエレフテリオス・ヴェニゼロスが、ゲオルギオス王子を失脚させるための運動を展開したことにより、1906年にゲオルギオス王子は総督を辞任した。 1908年に起きた青年トルコ人革命への対応が評価され、ヴェニゼロスの権力基盤は更に強化され、同年10月8日にクレタ島議会はゲオルギオス・テオトキス首相のアテネ政府による保留措置と列強の反対にも関わらず、ギリシャ本国とクレタ島の統合決議案を可決させた。しかし、各国はこれを承認せず、アテネ政府も事実上黙殺し、未解決事案として暫定的に国際委員会の管理下に置かれることとなった。 そんな中、下士官クラスの若い軍人達が「軍隊連盟」という組織を結成して、軍の改革や王制の廃止などを盛り込んだ計画を議会に提示した。しかし、ディミトリオス・ラリスがこれを拒否したことから、軍隊連盟はクーデターを起こし、ゲオルギオス1世は民主的な選ばれた議会を支持するように主張した。結局、軍隊連盟は憲法改正のために議会を召集するべく、ヴェニゼロスと連携することを決めた。最終的にゲオルギオス1世は譲歩し、1910年8月に選挙が行われ、10月にヴェニゼロスは首相となった。しかし、大部分の野党が連携を拒否したことから、ヴェニゼロスは12月に再び選挙を行い、安定多数を確保することに成功した。 ヴェニゼロスとゲオルギオス1世は、希土戦争での惨敗による損害を修復するべく、より強い軍隊を保持する必要があるという点で一致していた。コンスタンティノス王太子は、陸軍の監察官として復帰し、後に最高司令官となった。王太子とヴェニゼロスの厳密な監督の下、ギリシャ軍はイギリスとフランスの援助によって再訓練を受けて武装し、海軍には新しい艦船が注文された。その一方で、ヴェニゼロスは外交手段によって、当時弱体化していたオスマン帝国に対抗するべく、バルカン半島のキリスト教諸国との連携を強化し、バルカン同盟を結ぶに至った。 1912年10月8日に、モンテネグロがオスマン帝国に宣戦布告をすると、セルビア・ブルガリア・ギリシャが連名で最後通牒を送付してこれに合流し、第一次バルカン戦争が勃発した。結果は、バルカン同盟側の勝利に終わり、厳しい訓練を経た総勢200,000名のギリシャ軍は、連戦連勝した。1912年11月9日に、ギリシャ軍はブルガリア軍より数時間早くテッサロニキに到着した。その数日後に行われたパレードで、ゲオルギオス1世はコンスタンティノス王太子とヴェニゼロスが付き従うなか、ギリシャで第二の都市となったテッサロニキに意気揚々と乗り込んだ。 ゲオルギオス1世は、テッサロニキでもアテネと同様に護衛兵を付けずに街中を歩き回った。1913年3月18日午後、テッサロニキのホワイトタワー付近を散策していた際、ゲオルギオス1世はアレクサンドロス・スヒナスに背後から至近距離で銃撃され、崩御した。スヒナスは取り調べの中で、「社会主義組織に属していた」「国王が自分に金を渡すことを拒否したので殺害した」と供述した。ギリシャ政府は、事件の背景に政治的な動機は無く、スヒナスはアルコール中毒の浮浪者であると発表した。スヒナスは刑務所で拷問を受け、その6週間後に警察署の窓から転落して死亡した。 ギリシャとデンマークの国旗に覆われたゲオルギオス1世の棺は、タトイ宮殿の墓地に埋葬される直前の5日間は、アテネの生神女福音大聖堂に安置された。
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