公衆便所の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 15:02 UTC 版)
ラーマ4世とラーマ5世の治世になると、バンコクの人口が増加し、経済発展が進むと、西洋の文化もまた急速に受容されていた。しかし当時、庶民にとってまだ個人の住居敷地に便所を建設することは好まれず、便所は普及していなかった。排便は路地や大通りの脇、寺の壁の脇、水路の岸辺などで済ませていたため、いたるところに糞尿の山が散らばり目も当てられない状況となり、強い臭いを放ち、伝染病の原因ともなっていった。さらに僧院の便所は寺の敷地に中にあったが、便は水に流したり、地面にばら撒いて捨てたりしていたので、動物が漁りに来たり、ゴキブリが集ってしまっていた。そこで、ラーマ5世の治世後期、1897年公衆衛生局が設立され、同年に初めて公衆便所の建設を開始した。この便所はウェートサーターラナ(เวจสาธารณะ:公共の便所)と呼ばれた。公衆便所はさらに建設が進められ、各タムボン、バンコク都内で設置された。さらに時同じくして1897年政府によって「バンコク都公衆衛生法令」を公布し、バンコク都民に排便は便所で行うように規則を課した。さらに政府では同法令、8条2項に「すべての人民のために便所を建設に取り組む」ことを掲げ、衛生局に便所建設に取り組ませた。 衛生局が建設した公衆便所は、5から6室に仕切られており、主要な通り脇で多くの人々で賑わう商業区域であるヂャルーンクルン通り、バムルンムアン通り、フアンナコーン通りなどに建設された。また寺院の近くの集落にも建設され、ワット・ボーロムタート(วัดบรมธาตุ)門前界隈、ワット・カムローイー(วัดกำโลยี่)門前界隈、ワット・マハン(วัดมหรรณ์)向かいに設置された。さらに寺の敷地の中に建設されることもあり、ワット・ボーウォーニウェートウィハーンやワット・ラーチャブラナ(วัดราชบุรณะ)では敷地内に設置された。このほかにも領主の宮殿や刑務所や病院といった公共機関の近くに建設された。 最初期の公衆便所は便壺式便所(スワム・タンテー:ส้วมถังเท)であった。建屋を持ち、内部には屈んで排便をするために穴を開けた木製の便器が設置され、下部には便を受ける容器が設置されている。便は許可証を与えた清掃会社が毎日の回収と搬出、便壺の交換に責任を持っていた。政府は都市部では便壺式便所、農村部で穴式便所(スワム・ルム:ส้วมหลุม)の公衆便所を作ることで国民の排泄行為を変革する政策をたて、さらに都市の人々に便所の使い方とその重要性を理解させるために規則、罰則を定めた法律を制定した。その甲斐があり法律の施行からおよそ10年もたつと個人宅にもトイレを建設する人々が出始めた。 1917年から1928年までの間、アメリカのロックフェラー財団が医療、公衆衛生分野の援助のためにタイで活動を行った。財団は伝染病の予防のために各地で便所の建設を進め、設置数を増やしていった。続いてタイ人もまた、タイの地域風土に応じてさまざまな形の便所を発明し、設置していった。例えば、排泄口のふたの閉め忘れに対応したブンサアート式便所(ส้วมหลุมบุญสะอาด)や、腐敗槽・浸透槽システムをもつコーハーン式便所(ส้วมคอห่าน)などである。 こういった古いタイプの便所はゴキブリや悪臭の発生に対処するために作られたが、この技術はさらに節水、安価な建設費、容易に建設が可能など多くの利点があった。コーハーン式便所は穴式便所に取って代わって普及し、現在なお利用されている。 1932年立憲革命の後にプレーク・ピブーンソンクラームが首相になると政府は国民と排便と入浴といった公衆衛生に関する政策の強化を政策に掲げ、衛生観念を植え付けるために児童学習教材を製作した。
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