宮将軍擁立説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:39 UTC 版)
また、家綱の危篤にあたって、鎌倉時代の例に倣って徳川家・越前松平家とは縁続きである有栖川宮幸仁親王を宮将軍として擁立しようとしたとされ、これは徳川光圀、堀田正俊などの反対にあい、実現しなかったという。これは、家綱の弟の綱吉の資質に疑問を持ったためとも、あるいは家綱の側室が懐妊中で、出産までの時間稼ぎをしようとしたためともいわれる。宮将軍擁立説は『徳川実紀』をはじめとした史料に見られ通説として扱われてきたが、近年では歴史家・辻達也の再評価があり、失脚後の風説から流布したものであるとする指摘もある。 備前岡山藩主・池田光政(父の従兄弟)とは交友があり、光政日記にも忠清に関する記事が見られるが、寛文8年(1668年)には忠清に意見書を提出したという(『池田家文書』)。これは忠清の専横を批判したものであるとも言われているが、光政日記には意見書提出の記述が見られず、同時代に行われている諫言書であるとも考えられている。
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