定住生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 06:02 UTC 版)
「ノルウェー系アメリカ人」の記事における「定住生活」の解説
所謂「スルーパー」と呼ばれる開拓移民の大多数は、アメリカ人クエーカー教徒の手厚い奉仕に支えられ、ニューヨーク州西部のオルレアン郡へ赴き、現在のケンダル郡区に定住する事となる。ケンダルの入植者は1830年代半ば、イリノイ州フォックス川地域への入植を皮切りに、ノルウェー人による西漸運動へ刺激を与えた。同時期、ノルウェー人の小規模な都市コロニーがシカゴに初めて建設されるに至る。 移民入植地においても、1836年以降毎月やって来るノルウェー人ニューカマーを迎え入れる体制が整備。ノルウェー人開拓者はイリノイ州からウィスコンシン州北西部へと勢力を広げ、ウィスコンシン州に至っては南北戦争まで、ノルウェー系アメリカ人の活動の中心地であり続けた。 1850年代にはアイオワ、ミネソタ両州へ移動を始め、ダコタ地域への流入が1870年代までには進行する事となる。農業植民者の大部分はミシシッピ、ミズーリ両河川に跨る、所謂「ホームステッド法三角形」の北部地域を開発していった。 その後、上中西部が殆どの移民の本拠地となり、1910年には100万人以上ものノルウェー系アメリカ人の約8割が同地に居住。1990年に入ってもその半数強が中西部に住み、ミネソタ州が最大数を誇る事となる。就中ミネアポリスは物心両面にわたり、ノルウェー系アメリカ人の「首都」として機能した。 大西洋岸北西部のピュージェット湾地域、とりわけシアトルにおいて移民生活の中心地が形成。その他アラスカ、テキサス、カリフォルニア、ワシントン及びノースダコタの各州やニューヨーク・ブルックリンでも同様の動きが見られた。 ブルックリンやシカゴ、ミネアポリスの他シアトルでは、ノルウェー系アメリカ人が複雑な民族共同体を形成する一方、多文化主義的な環境にも直面。居住・職業パターンや政治的動員などに示されているように、ノルウェー人やスウェーデン人、デンマーク人によるスカンジナビアの「人種のるつぼ」が存在していたと言えるかもしれない。 異民族間の結婚は現地社会への同化を促した。アメリカ国内の大都市では、ノルウェー系移民の地区がもはや存在しない事からも窺えるであろう。1920年代初頭以降、郊外への移住が増加したため、アメリカ人以上にアメリカ人的と見る向きもある。
※この「定住生活」の解説は、「ノルウェー系アメリカ人」の解説の一部です。
「定住生活」を含む「ノルウェー系アメリカ人」の記事については、「ノルウェー系アメリカ人」の概要を参照ください。
- 定住生活のページへのリンク