縄文時代早期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 17:18 UTC 版)
縄文早期になると定住生活が出現する。鹿児島市にある加栗山遺跡(縄文時代早期初頭)では、16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが検出されている。この遺跡は草創期の掃除山遺跡や前田遺跡の場合と違って、竪穴住居跡の数の大幅な増加、住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡やその他の遺構が中央広場を囲むように配置されている。 加栗山遺跡とほぼ同時期の鹿児島県霧島市にある上野原遺跡では46棟の竪穴住居をはじめ多数の遺構が検出されている。このうち13棟は、桜島起源の火山灰P-13に覆われていることから、同じ時に存在したものと推定できる。この13棟は半環状に配置されていることから、早期初頭には、既に相当な規模の定住集落を形成していたと推定される[誰によって?]。 縄文早期前半には、関東地方に竪穴住居がもっとも顕著に普及する。現在まで、竪穴住居が検出された遺跡は65ヶ所、その数は300棟を超えている。そのうちで最も規模の大きな東京都府中市武蔵台遺跡では24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されて検出されている。 南関東や南九州の早期前半の遺跡では、植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加する。定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されている。南関東の定住集落の形成には、植物採集活動だけでなく、漁労活動も重要な役割を果たしていたと考えられている[誰によって?]。 一方、北に目を転じれば、北海道函館市中野B遺跡からは縄文早期中頃の500棟以上の竪穴住居跡、多数の竪穴住居跡、土壙墓、落とし穴、多数の土器、石皿、磨石、敲石、石錘が出土して、その数は40万点にも上っている。津軽海峡に面した台地上に立地するこの遺跡では、漁労活動が盛んに行われ、長期にわたる定住生活を営むことが出来たと考えられる。また、東海地方の早期の定住集落、静岡県富士宮市若宮遺跡は28棟の竪穴住居をはじめとする多数の遺構群とともに、土器と石器が1万8000点ほど出土している。この遺跡が他の早期の遺跡と大いに違う点は、狩猟で使用する石鏃2168点も出土したことである。富士山麓にあるこの遺跡では、小谷が多く形成され、舌状台地が連続する地形こそ、哺乳動物の生息に適した場であった。つまり、若宮遺跡では、環境に恵まれ、獲物にも恵まれて定住生活を営む上での条件が揃っていたと推定される[誰によって?]。 移動生活から定住的な生活への変化は、もう一つの大きな変化をもたらした。その変化はプラント・オパール分析の結果から判明した。一時的に居住する半定住的な生活の仕方では、周辺地域の開拓までに至らなかったが、定住的な生活をするようになった縄文時代人は居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開いたことにより、そこにクリやクルミなどの二次林(二次植生)の環境を提供することとなった。定住化によって、縄文人は、集落の周辺に林床植物と呼ばれる、いわゆる下草にも影響を与えた。ワラビ、ゼンマイ、フキ、クズ、ヤマイモ、ノビルなどの縄文人の主要で安定した食料資源となった有用植物が繁茂しやすい二次林的な環境、つまり雑木林という新しい環境を創造したことになる。縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半であることは遺跡出土の遺物から分かっている。2013年、福井県鳥浜貝塚から世界最古級(約1万1000 - 1万5000年前)の調理土器が発見された。これにより、サケなどの魚を調理していた可能性が判明した。
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