治世と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 14:35 UTC 版)
即位した苻生は領内に大赦を下し、寿光と改元した。群臣が「越年せずに改元するのは、礼に適っておりません」と上奏すると(古礼では世子が即位した際、年を越してから改元するのが慣例であった)、苻生は激怒して上奏の発案者を探し出し、段純だと分かると捕らえて処刑した。この一件を皮切りに、皇后の梁氏や他多くの群臣を処刑した。また即位以前からの寵臣の趙韶を右僕射に、趙誨を中護軍に、董栄を尚書に任じたが、趙韶・董栄らは奸佞な人物であり、大いに朝政を乱した。 苻生は355年9月に前涼の君主張祚が殺害され、後を継いだ張玄靚がまだ幼いと聞き、356年1月に征東将軍苻柳・参軍閻負・梁殊を姑臧に派遣し、書を以て降伏するよう説いた。張玄靚を補佐する涼州牧張瓘は大いに恐れ、張玄靚に使者を派遣して称藩するよう上奏した。張玄靚からの使者が到着すると、苻生は張玄靚らが称していた官爵をそのまま授けた。2月、前燕皇帝の慕容儁が配下の慕輿長卿らに兵七千を与え、軹関より攻め寄せると、この侵攻を知った苻生は鄧羌を救援に差し向け、この戦いで慕輿長卿を討ち取り、2千7百を超える首級を挙げる大勝利を得た。 4月、関中攻略を目指していた姚襄が進軍すると、苻生は苻黄眉・苻道・苻堅・鄧羌に歩兵騎兵合わせて1万5千を与え、姚襄討伐に向かわせた。前秦軍は偽装退却を用いて姚襄を本陣から引き離した上で攻撃し、乱戦の中で姚襄は斬り殺され、その軍は戦意を失い降伏した。弟の姚萇は敗残兵を纏め上げると、苻生に降伏した。姚襄は父の姚弋仲の棺を軍中に置いていたが、苻生は王の礼をもって姚弋仲を葬り、また公の礼をもって姚襄を葬った。苻黄眉は長安に帰還したが、しかし苻生はこれを一切賞さず、逆に幾度も衆人の目前で苻黄眉を侮辱した。苻黄眉はこれに激怒し、苻生を殺害して自立しようと謀ったが、事前に露見してしまい、誅殺された。この一件に連座して、多数の王公・親戚が殺害された。 さらに苻生は、別の従兄弟であった清河王苻法や、その兄弟らまでも殺害しようとの計画を侍婢に漏らしたが、この侍婢はこの事を当の苻法へと報告した。これを聞いた苻法は、他の朝臣らと共に壮士数百を率いて宮殿へと突入した。また苻法の弟である苻堅も兵数百を率いて宮殿に迫ると、宿衛の将士はみな武器を捨てて苻堅に従った。この時、苻生はまだ酔い潰れて眠っていたが、兵を率いた苻堅が現れると、苻生は驚愕して側近へ「この輩は何者か」と問うた。側近が「賊であります!」と答えると、苻生は彼らへ「なぜ拝謁しないか!」と叫ぶと、苻堅の兵はみな笑った。苻生は「どうしてすぐに拝さない。従わぬ者は斬り捨てるぞ!」と叫んだが、苻生は苻堅の兵により別室に連行され、越王に降格された上で殺害された。苻生は死に望んでもなお数斗の酒を呑んでおり、前後不覚であったという。享年23、在位すること3年であった。厲と諡された。
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