治世と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:24 UTC 版)
「ペトロニウス・マクシムス」の記事における「治世と死」の解説
宮廷を掌握したマクシムス帝は自らの権力を固めるためにウァレンティニアヌス3世の未亡人リキニア・エウドクシアと結婚した。エウドクシアは亡帝の暗殺にマクシムス帝が関与してると疑っており、不承不承この結婚を受け入れた。コンスタンティノープルの東ローマ宮廷は彼の即位を承認せず、このため、マクシムス帝は自らの立場を強化するためにアウィトゥスをマギステル・ミリトゥム(おそらくイタリア軍区司令官)に任命してトゥールーズへ送り、西ゴート族の支援を受けようとした。さらにマクシムス帝はウァレンティニアヌス3世の皇女エウドキア(英語版)と息子のパラディウス(英語版)(415年頃/425年頃 - 455年3月)とを結婚させた。ウァレンティニアヌス3世は生前、ヴァンダル王ガイセリックとの間で皇女エウドキアとヴァンダル王子フネリックとの結婚が取り決めていたようであり、さらに絶望したエウドクシアがヴァンダル宮廷に助けを求めたことが彼に口実を与え、ヴァンダル族はイタリア侵攻を準備した。 マクシムス帝が即位して2か月たった5月にガイセリックがイタリアへ向けて出帆したとの知らせがローマに届いた。この知らせが広まると市内はパニックに陥り、住民の多くが逃げ出し始めた。マクシムス帝はこの事態に全くの無為無策だった。期待していたアウィトゥスが引き連れてくるはずの西ゴート族の援軍はいまだ到着しておらず、皇帝はヴァンダル族を防ぐことはできないと考え、逃亡を試み、元老院議員たちにともに逃げるよう急き立てた。だが、大混乱の中、マクシムス帝は護衛や側近たちに見捨てられ、自身で逃げる算段をせねばならなくなる。 455年5月31日、街頭に出たマクシムス帝は激昂した群衆に遮られ、彼らは皇帝に石を投げつけ死に至らしめた(ある史料によれば皇帝はウルサスという名の一兵士に殺害されたという)。彼の死体は切り刻まれ、テヴェレ川に投げ捨てられた。彼の在位は僅か75日間だった。副帝(カエサル)に任じられていた皇子パラディウスもおそらく処刑されている。 マクシムス帝の死から2日後の6月2日、ガイセリックは市内に入り、2週間にわたり略奪の限りを尽くした。ローマ教皇レオ1世の懇願に応えて都市の略奪につきものの放火、虐待そして殺人は控えたものの、ガイセリックは大量の略奪品に加え、皇后エウドクシアと彼女の二人の皇女のエウドキアとプラキディア(英語版)を連れて町を去った。456年に皇女エウドキアはヴァンダル王子フネリックと結婚させられた。 混乱の中、しばらく西ローマ皇帝は空位のままだったが、ガリアにいたアウィトゥスが西ゴート王テオドリック2世の後ろ盾を得て7月9日に皇帝たるを宣言し、元老院はやむなくこれを認めさせられた。
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